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情操教育の重要性を知っていますか? | NSU教育学部 Vol.11
新元号の「令和」が発表になりました!
昭和、平成よりもさらに良い時代になるためには、教育によって豊かな人材を育成していく事が不可欠ですよね。
さて、シリーズNSU(Next Stage University )教育学部第11弾のテーマは「情操教育」(じょうそうきょういく)についてです。
ウィキペディアによると、「情操教育とは、感情や情緒を育み、創造的で個性的な心の働きを豊かにするためとされる教育、および道徳的な意識や価値観を養う事を目的とした教育の総称」とあります。
ざっくり言えば、いわゆる国語、算数、理科、社会のような、教室の机に向かっての勉強ではなく、大自然で生き物に触れ合ったり、美術や音楽といった芸術に触れたりする事で心を育んでいく教育と言えるでしょうか。
このブログを読んでくださっている方の多くは音楽家、もしくは音楽家を目指している方だと思いますので、情操教育の重要性を知っておく事はとても大切だと思います。
音楽は二の次?
音楽って、衣食住と比べると二の次に扱われているイメージがありませんか?学校の授業の中でも前述の主要科目と比べると、同じように二の次なイメージがあるような気もします。
「なんで潰しのきかない音大なんて行くの?」
こんな事を言われた人もいるかもしれませんが、例えば音の無い世界ってちょっと考えられないというか、怖くて生活出来ないですよね(カフェやレストラン、美容院に入っても音楽は鳴っているし、電車の発車ベルも音楽だったりします)。
音楽は生活の中になくてはならないものです。
前回のブログ(→NSU教育学部 Vol.10『日本語教育』)で日本語教育について触れましたが、音楽家になっている人の多くは、国語や算数などの大切さは理解しているけど、それよりも音楽が好き、得意で、だからこそ音楽家としての道を歩んでいるんじゃないかと思います。
そんな皆さんは必ず、子どものころに「音楽っていいな、楽しいな!」って感じた体験をしていますよね。このような体験が、情操教育によってもたらされている場合もあるのではないでしょうか。
僕のかけがえのない体験
僕の場合は、小学生の時、学校の芸術鑑賞教室にプロのオーケストラの人たちが来て、体育館で演奏してくれたのを今でも覚えています。何の曲だったかまでは覚えていないですが、生の弦楽器を見たり聴いたりするのは初めてだったので、子ども心に「繊細でいい音だな!」と感じた記憶があります。
プロではないですが、小5の時、2つ上の兄が中学校で吹奏楽部に入り、トロンボーンの担当になりました。定期演奏会で初めて吹奏楽を聴いた時は、弦の入っているオケとはまた違う、管楽器の迫力に圧倒され、「自分も吹いてみたい!」と思いました。
高校生のころにワールドクラスのアーティストにとても良くしていただいた経験は、将来のアメリカ留学や、グローバルな価値観で物事を考える習慣へと繋がりました。
このような体験が無ければ(トロンボーンと出合っていなければ)、いまこの職業にすら就いていない可能性もあるのですから、部活動も含め、「僕にとっては音楽がいかに大切だったか」という話です(人によってはそれが美術の人もいれば、スポーツなど、さまざまです)。
発展途上国では…
日本の教育のあり方、部活動のあり方にもいろいろ問題があるとは言え、音楽の授業があったり、部活動がある日本は本当に素晴らしい環境なんです。
僕は数年前、フィリピンの貧困地域の子どもたちに音楽を届けるボランティアをやっていました。
貧困率が高い国や地域では、先ほども触れたように、まず「生きる事」が優先されます。音楽なんかやってる場合ではないんですよね。そういう環境では何かに感動する事も少なく、心が育ちません。結果、教育を受けられずに働かないといけなくて貧困のスパイラルから抜け出せなかったり、(生きるために)犯罪に手を染めてしまう子どもたちがたくさんいるのです。
音楽があれば犯罪は起きないとは言い切れないですが、お金だけではない、「心の豊かさ」を手に入れる事で、犯罪の抑止になったり、そこまでオーバーな話ではなくても、人としての成長、自立に何らかの良い影響がある事は間違いないと思います。
そんな音楽の素晴らしさをあなたが実感し、学校の先生であっても、先生ではなく音楽家であっても、それを早い段階で子どもたちに伝える活動(教育)が出来れば、日本も世界も、もっと豊かで平和な良い社会になるのではないでしょうか。
これからの音楽家のあり方は?
皆さんが目指している世界は(音楽家の存在は)それくらい素晴らしいもので、世の中の役に立つ事なんです!
僕が小中高で体験したような事は、きっと皆さんの中にもあると思います。ぜひ思い出してみてください。
「あの時のあの演奏を聴いたおかげで今の自分がある」
直接お礼を言ってもらえるシチュエーションは少ないかもしれないけど、誰かにそう思ってもらえる仕事って有意義ですよね。個人的には、SNSで「いいね!」をもらって自己承認欲求を満たすより、自分の演奏や存在自体で、「いいね!」をもらえなくても「あの人がいて良かったと感じてもらえる」人間になりたいと思っています。
オーバーかもしれませんが、これが「音楽家の存在意義」とも言えるのではないでしょうか。
教育は未来のためにあります。
これからテクノロジーが進めば、世の中からは管弦楽のような生演奏の仕事は必要なくなってしまう可能性もありますよね。ですが、ロボットの生産ではなく、感情を持った人間を育むために、私たちが生の音楽を届ける価値はもっと上がっていくと思うのです。
そんな中で人の心を動かせる音楽家や先生は、きっと居場所を失わないのではないかと僕は考えています。
→次回(シリーズ最終回)に続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.12『自分で自分の未来を切り開く』
前回記事:NSU教育学部 Vol.10『日本語教育』
シリーズNSU(Next Stage University)教育学部もついに10回目となりました。
今回のテーマは「日本語教育」についてです。
日本に生まれて日本で育っていれば、ほぼその人の年齢分学習し続けていると言っても過言ではないと思いますが、あなたは正しく使えていますか?
音楽家は、作家や新聞記者などと比べた場合、比較的語学力は必要ないと感じるかもしれません。ですが、ここ最近NSPでスタッフ育成を行っていても、実はかなり重要なのではと再認識させられています。
リスニング&スピーキング能力
改めて言うまでもないですが、現場で周囲の誰とも会話をせず、音楽だけで仕事や学生生活が成り立つシチュエーションは考えづらいですよね。
まずはリスニング(聴く)能力、スピーキング(話す)能力が必要になります。実際、赤ちゃんが喋れるようになる過程でも、聴く事から始まり、話せるようになっていると思うので、コミュニケーションの中での重要度が高い2つと言えるでしょう。
同年代の友人たちとリハーサルをやったりする分には不自由を感じている人はほとんどいないと思いますが、目上の音楽家や、お仕事をくださっているクライアント様への(敬語などの)言葉遣いがスレスレ、もしくはアウトな人は結構多いですね。
音楽家の場合、いわゆる一般の就活のような面接がなくてもある程度仕事になる事もあり、自分が使っている言葉をあまり意識していないかもしれませんが、音楽と同じくらいその人を評価する基準になっている場合があると僕は考えています。
想像してみてください。
たとえ同年代でも(年下ならなおさら)、初対面の人が異常に馴れ馴れしかったり、あからさまに上から目線であなたに話しかけて来たら、あなたはその人と良いアンサンブル(仕事)が出来る気がしますか?
言葉遣いというのは、敬語の使い方や文法の問題だけではありません。それ以上に大切なのは「表現力」だと思います。
「どう話すか」の前に「何を伝えたいか」。
例えば音大生がレッスンを受けるにしても、今、自分はどこを目指していて、どんな課題に直面していて、先生に何を見て(聴いて)もらいたいのかを的確に伝えないと、有益なレッスンは受けられないですよね。
エチュードを片っ端からやって、間違えないように演奏出来るようになったのを見てもらうだけでは何の意味もありません。
口下手だけど、演奏したら人が変わるというようなアーティストタイプの人もたくさんいますが、日本語の表現力と音楽の表現力って、ある程度は比例しているんじゃないかなって僕は感じています。
論文のような堅苦しい表現の人と、詩のような繊細な表現が出来る人の音楽、きっと同じじゃないですよね。
レッスンの仕事をやっている人は、自分の奏法やノウハウを言語化し、適切に伝えられなければ仕事になりません。音大受験生を見ているなら専門用語を使って多少難しい表現になっても良いですが、子どものレッスンや初心者の大人であれば表現を変えたりします。これもある意味音楽以上に大切な能力です。
「どう話すか」より「何を伝えたいか」。
これは一般企業に就職する人も同じではないでしょうか。
面接でどんなに丁寧な言葉を使っても、中身がない事を見透かされたら内定をもらえないだろうし、入社出来たとしても、自分が何に困っていて(何が分からなくて)、上司にどうやって助けてもらいたいのかを表現出来なかったら、成長の妨げになったり、もっと言えばストレスを抱えて仕事が続かなくなってしまいます。
参考:
NSPのスタッフに向けた「ミュージシャンのためのウェブブランディングセミナー」を開催しました。
リーディング&ライティング能力
これからの時代、コミュニケーションの手段としてさらに大切になるのはリーディング(読む)とライティング(書く)の能力です。
今から20年ほど前、僕がプロ活動を始めたばかりのころは、仕事の依頼はほぼ100%電話がかかってきていました。その後メールが主流になり、今ではFacebookやLINEなど、SNSのメッセージ機能でやり取りするのが普通になり、ほとんど電話も使わなくなってきています。
それだけに、読み書きの能力の必要性が高まっているという事ですよね。
ですが、生まれた時からSNS世代の若い人たちは、友達と
「元気?」→「うん」→「明日暇?」→「暇」→「じゃあ遊びに行こ!」→「いいよ。どこ行く?」→「渋谷はどう?」
このような短い会話をLINEでやっているかと思います。場合によってはスタンプ一つで会話が成立する事もありますよね。
ですが、ビジネスメールでこれは通用しません。
演奏の依頼がメールで来る場合も、クライアント様がどんなご要望かを正確に読み取り、的確な言葉遣いで、的確なご提案をしていく必要があります。
友達や先輩との会話では名前も名乗らず「お疲れ様です」という書き出しで良くても、ビジネスの場合ではきちんと「○○株式会社 ○○様」というように社名や名前を書き、「お世話になっております」というような書き方をします。
謝罪の場合でも「すみません」よりは「申し訳ありません」のような表現が一般的ですよね。
また、どんなに丁寧な表現を使っていても、お仕事をくださっているクライアント様に対し「○○をお願いいたします」というような内容の(です、ます形の)羅列になると、結果命令されているように受け取られてしまう場合もあります(「○○をお願い出来ますでしょうか?」というような表現にしたほうが良い場合もあります)。
内輪のスタッフに対しては上司に対しても「よろしくお願いします」くらいのほうが対等な立場で信頼関係があるように僕は感じるのですが、「よろしくお願い申し上げます」というような必要以上に丁寧な表現をされると、逆に裏表を感じるというか、他人行儀な印象を与えかねません。
こういった事をNSPでスタッフ育成をやっていても多々感じるのですが、それだけ学校では教わっていないという事かもしれませんね。
ビジネスメールの場合だけでなく、これからの時代は(すでにですが)ホームページやSNSがローリスクハイリターンになる可能性のあるマーケティングツールです(テキストが必要になります)。
レッスンをやっている人であれば、場所や曜日、金額のような事務的な内容しか記載されていないより、「自分にはこういうノウハウがある」とか「世間ではこんな指導がまかり通っているけど、自分はそうは思わない、こういう指導をする」といったその人のオリジナリティが伝わるほうが生徒は集まりやすいでしょう。
グローバル社会になってもまずは日本語!
最後になりますが、これからの時代はよりグローバルな社会になっていきます。
英語の必要性はいろんな所で言われているので、皆さんも良く耳にするでしょう。でも、英語というのも一つの「ツール」に過ぎません。やはりまずは母国語である日本語をきちんと使いこなし、自分の思った事を伝えられないと、それを英語に変換して伝えられるはずがありません。
それだけ「日本語教育」というのは大切だという事を常に意識しておくと良いのではないでしょうか。
日本語を学ぶ必要性を感じる人は、活字の本をたくさん読んだり、ネットでビジネスマナー(メールのマネーなど)を検索したりして、自分で学ぶ姿勢をもつと良いと思います。
→次回へ続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.11『情操教育』
前回記事:NSU教育学部 Vol.9『ポジティブな人とネガティブな人』
シリーズNSU(Next Stage University )教育学部第9弾のテーマは「ポジティブな人とネガティブな人」です。
ポジティブな人はつまりプラス思考で、物事を楽観的(前向き)にとらえ、能動的な人生を歩んでいると言えますよね。ちょっとくらい失敗をしたとしても、「良い経験だった」と割り切り、どんどん未来を切り開いていきます。
逆に、ネガティブな人(マイナス思考の人)は、物事を悲観的(後向き)にとらえ、受動的な人生を歩んでいると言えます。過去の失敗を引きずり、常に失敗を恐れ、思い切った行動を取る事が出来ません。
ポジティブな人が「ネガティブになりたい」と思っているという話は聞いた事がないですが、自分がネガティブだと感じている人の多くは、ポジティブな人に憧れているのではないでしょうか。
そんなポジティブには一見、良い事しかない、ネガティブには良くないところしかないように思うのですが、実際にはどうでしょう?
ポジティブシンキングの落とし穴
ポジティブな人は良くも悪くも、あまり深く考えずに行動する傾向があるように思います。「まあ、なんとかなるからとりあえずやってみよう!」という感じです(「根拠のない自信」という言葉もありますよね)。
もちろんこの行動力は素晴らしいのですが、あまりに経験や教養、知識が伴わない状態でのポジティブの場合、時に大事故を引き起こしかねないのではないでしょうか。
例えば、日本は地震などの災害大国ですが、「いつ起こるかわからないし、なんとなく自分は死ぬ気がしない」と思って、耐震基準を満たしていないボロボロの家に住んだり、非常用の食料や水を貯蓄していなかった場合、いざ本当に大地震が来たら命を落としかねません。
自分はさすがにそこまであっけらかんとはしていないと感じるかもなので、「プロの音楽家として生きていく」という行為で見てみましょう。
実際には音大生の数パーセント程度しか実現出来ない難関だと思うのですが、「自分はどうにかなる!」とポジティブにとらえ過ぎている人が多いと、僕は多くの学生や若い音楽家を見て感じています。
『夢を実現させるために、最も大切な行動とは?』Vol.1
↑
この記事でも取り上げたように、本来は「情報収集や戦略」が大切になってくるはずなんですが…
ネガティブシンキングをプラスに変える!
一方、ネガティブな人というのは、慎重な人とも言えますよね。
「日本に住んでいたらどこにいても常に地震で命を落とす危険性がある。なるべく安全な建物に住んで、非常用持ち出し袋なども買っておこう」という考え方が出来ると思います。
「音楽家として食べていけるのはほんのひと握り。自分には難しいかもしれない。だから人より練習、情報収集をして、生き残るための戦略を立てよう!」と考える事が出来ます。
どうですか?このように見方を変えてみると、ポジティブな人よりもネガティブな人のほうが成功しそうな気がしませんか?
ポジティブとネガティブの両立
僕が言いたいのは、どちらかが正解という話ではありません。
世の中で成功している人というのは、ポジティブな面とネガティブな面を両方合わせ持ち、状況に応じてうまく使い分けているという事です。
そうする事で、上手に危機管理をしながら前に進んでいく事が出来ますよね。
チームや組織の場合、Aさんはポジティブ寄り、Bさんはネガティブ寄りという風に、複数のタイプが違う人のコンビネーションでうまく機能している場合がほとんどだと思います。
極端にポジティブ過ぎたりネガティブ過ぎるのは良くないと思いますが、適度なネガティブは決して悪い事ではありません。
日本には先人の教えとも言える「ことわざ」というものがあります。ポジティブで思い付くのは「明日は明日の風が吹く」くらいですが、ここで言う適度なネガティブでは、「転ばぬ先の杖」、「備えあれば憂いなし」、「石橋を叩いて渡る」など、いくつも思い浮かびます。それだけ大切な事だと言えますよね。
NSU教育学部 Vol.3『日本と欧米の教育の違い』
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「日本と欧米の教育の違い」でも触れた、大坂なおみ選手の元コーチのようなポジティブシンキングは最近ちまたでよく聞かれるようにはなりましたが、これを鵜呑みにしてそのまま教育現場に取り入れるのは危険だと思っています。
まったく危機管理の出来ない子が育ってしまったり、適度なネガティブさを持っている子の良さに気付かず、否定してしまい、必要以上のポジティブシンキングを押し付けてしまう事態にもなりかねません。
やはり大切なのは、全員に同じ、平均点な指導をするのではなく、各自の個性を見極め、良いところは伸ばすけど、足りない部分は適度に補うという指導だと思います。
ある物事について、「例えばこういう行動をしたらこんな良い事が起きるかもしれない。でも、こういうリスクもある。どんな事が想像出来ますか?あなたはどんな行動を取りますか?」という風に、常に考えさせる教育が大切ではないでしょうか。
NSU教育学部 Vol.2『カリキュラム教育のメリット/デメリット』
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ここでも書きましたが、カリキュラム教育の弊害は、自分で考えない事です。
教育の大前提である「自立」において最も重要な行動が、「自分で考える事」です。
危機管理の出来る知識と教養を経験によって身に付け、そこにポジティブな行動力がともなえば、あなたの成功の可能性はとても高くなると言えるのではないでしょうか。
次回へ続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.10『日本語教育』
前回記事:NSU教育学部 Vol.8『信用』
前回(→NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(上))、前々回(→NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(下))と2回に分け、「お金の教育」について書かせていただきました。
社会人として自立する=お金を稼ぐ
と言っても過言ではありません(ニートのように、自分で働かずに親御さんに養ってもらっている状態は自立とは言えないので)。
お金としっかり向き合う事の大切さをご理解いただけたでしょうか。
では、お金が動く(払う、受け取る)という現象はいったい「何によって」もたらされているのでしょうか。もちろん僕が言いたいのは物理の話ではありません。「人間関係」の中での話です。
タイトルにも書いたので気付いている方も多いと思いますが、それは「信用」です。
信用の大切さ
皆さんもイメージしてみてください。自分がお金を払ったり、受け取ったりする時には必ず「信用」をともなっていませんか?
例えばコンビニでレジ前にあるおでんを買う人は、なぜそれを買うかと言うと、そのコンビニのブランドを信用しているからです。最近ニュースで「バイトテロ」が話題になっていますが、アルバイトの若者がおでんを口に入れて戻しているような動画を見たら、「あそこと同じコンビニで買うのをやめよう」とか、「真空パックになった製品を買おう」と思いますよね。
これはまさに信用を失った状態です(信用を失うと、お金が動かなくなります)。
皆さんの多くが楽器に高いお金をかけていると思いますが、プロがオークションで買う事はほぼありません。ちゃんとお店で試奏すると思います。それは、オークションの写真や宣伝文句だけでは信用出来ないからですよね。
日本の紙幣や硬貨も同じです。例えば1万円札。
「これは間違いなく日本銀行で発行された印刷物で、1万円の価値がありますよ」と誰もが信用しているからであって、そうでなければほぼただの紙キレです(原価は20円ちょっとらしいです)。
あり得ない話かもしれませんが、どこか未開の原住民の住んでいる村に行って石か貝殻を出されて「これはこの村では1万円の価値がある、だから日本の1万円札と交換してくれ」と言われても、その通りにする人はほぼいないと思います(これも信用出来ないからです)。
悪い例を挙げれば、変な壺を買ってしまったり、怪しい宗教で高いお布施を払ってしまうのも、それは間違った意味で相手を信用してしまったからですよね。
何が言いたいかと言うと、
社会人として自立する=お金を稼ぐ=信用される人間になる必要がある
という方程式が成り立つという事です。
では、音楽家として信用されるためには何か必要でしょうか?
ただ楽器が上手いだけでなく、さまざまな要素が必要になる事は今さら言うまでもないですよね。どんなに楽器が上手くても、体調不良で仕事に穴を空ける、遅刻をする、約束を守らないといった人は信用されません。
『フリーランスで成功するための“10の秘訣”』Vol.1 謙虚さ、感謝がある、謝罪ができる
↑
このシリーズでお伝えしてきた内容はまさに「信用されるためには何が必要か」という話でもあります。
ちなみに、フリーランスの音楽家はクレジットカードの審査に落ちる人が結構いるのをご存知ですか?(読者の皆さんの中にもいらっしゃるのでは?)。
皆さんは何気なく「クレジット(credit)」という言葉を使っているかもしれませんが、実は日本語に訳すと「信用」という意味です。つまり、社会性や信用があってはじめて持てるものだという事ですね。
悲しい事に、フリーランスの音楽家はそれくらい「社会的に信用がない」というのも事実なんです。
学校での信用の教育
学校というところでも、僕はもっとこの「信用のあり方」を教育したほうが良いのではないかと考えています。
先生は(親御さんもですが)、はじめはもっと子どもたちを信用する必要があるし、逆に信用される人間である必要があります。
「あれをやっちゃダメ、これをやっちゃダメ」と規則で縛るのも、それは信用していないからですよね。
僕はこんなブログを書いているくらいですから、若者にもそれなりのレベルのマナーやスキルを要求します。それを親御さんや先生が「そんなのはうちの子にはまだ無理」と言う人がいるのですが、これはまさに子どもを信用していない典型だと思っています(大人が子どもの成長にブレーキをかけています)。
こういう事が教育現場でもとても多いので、教科書通り、マニュアル通りにしか動けない子や、目上の人のご機嫌を伺いながら、その人に気に入られるため(嫌われないため)だけに行動するような子、もしくは後先を考えず、無意味な反攻をしてしまうような子がたくさん育ってしまうのではないでしょうか。
もちろんただ信用するだけではなく、信用を失った時の代償はきちんと教えるべきだとも思っています。
前述の「バイトテロ」は、「信用の教育の欠如の典型例」ではないでしょうか。
経営者(立場が上の人)はアルバイトの若者(立場が下の人)を信用していない。言い換えれば、労働に見合った対価を支払っていない。そんな経営者をアルバイトの若者のほうも信用していないために、あのような動画を撮影してSNSにあげる輩が出てきてしまいます。
もちろん、やった行為が許されるわけではなく、社会全体に対して信用を失う行為をすれば、制裁を受けるという体験はさせるべきだと思います。
校則だけでなく、条例や法律、会社ごとの規則なども、ルール違反をすればするほど増えていきますよね。
自分がやりたい事をやって生きていきたいと思っているほど、本来はルールを守らないといけないんです。
音楽家として自立するというのは、ある意味自分の好きな事を職業にするわけです。冒頭に書いたようなニートではなくても、正社員として就職していなくても、日本ならアルバイトだけで自立する事も出来るかもしれません。ただ、この状態は社会的信用は低いし、音楽家を目指している人から見れば、望みとは真逆の人生でしょう。
社会のルールを守り、周囲から人として信用され、そして練習、経験を積む事によって音楽的な信用も得る
これが音楽家を志す人のあり方ではないでしょうか。もちろん音楽家を目指さなくても、社会で生きやすくするためには(自分が生きやすい環境を作るためには)、やはり信用が不可欠だと僕は思います。
信用を超えるもの
NSU教育学部 Vol.5『自分と他人』
↑
このシリーズの『自分と他人』では人間関係、対人関係を築くスキルを高める事の大切さについて触れましたが、人間関係の中で信用を超えた状態は何でしょうか?
それは「信頼」ではないかと思います。
「用いる」と「頼る」という意味の違いを考えても、そこには明確な違いがありますよね。
コンビニで買い物をする場合、そのお店を信用していればお金を使いますが、正直信頼というレベルではないと思います。でも、例えば僕の場合、楽器の購入やメンテナンスのような、直接仕事に影響する部分では、信頼出来るスタッフにお金を使います。
別の例えで説明すると「トロンボーンならまあ誰でも良いけど、藤井ならミスもなくそれなりにやってくれるから現場に呼ぼう」は「信用」のレベルだし、「どうしてもトロンボーンでは藤井の音、キャラクターが必要だから頼もう」は「信頼」の領域だと言えるかもしれません。
どちらが稼げるかは一目瞭然ですよね。お金の話だけになるとやらしく聞こえますが、
稼げる=信頼されている=自分が社会に必要とされている実感がある
とも言えるので、それがまた成長や生きる事自体へのモチベーションにもつながると思います。
余談ではありますが、信用、信頼を超えた最上級は「愛」だと言えるかもしれません。
良好な関係にある夫婦や肉親は、信頼を超えて愛がありますよね。
無理やりお金の話で例えると、肉親が無条件、無利子で子どもにお金を貸してくれるのは(学費を払ってくれたりするのも)、信頼を超えた愛があるからです。
まずは「信用」され、そこから「信頼」を得て、それが「愛」へと変わっていけば、きれいごとに聞こえるかもしれませんが、この世界はいまより少しだけ居心地が良くなると僕は思っています。
次回へ続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.9『ポジティブな人とネガティブな人』
前回記事:NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(下)
今回は、シリーズNSU教育学部第7弾『お金の教育』の続きです。
前回記事はこちら(→NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(上))
日本の奨学金の多くは借金のようなもの
ちなみに、アメリカの大学の奨学金は基本的に「返済不要」です。
アメリカは日本と違い、寄付の文化があります。ざっくり言うと全米の(世界中の?)お金持ちが大学に寄付していて、それが奨学金に充てられるため、返済義務がないんです。
※キリスト教では「お金はあの世に持っていけない、生きているうちに良い事に使わないと死後幸せになれない」というような考え方があり、だから寄付が集まりやすいと聞いた事があります。
僕が通っていた大学はラスベガスで、町がカジノ収益で潤っていたため、寄付金が多く、奨学金の高さを理由に入学してくる学生もいました。
ありがたい事に、僕も奨学金をいただいていたのですが、返済不要な代わりに、アメフト応援用のマーチングバンドか、大学を練習場にしている社会人バンド(吹奏楽)に参加するという「義務」がありました。
「寄付の中からあなたにお金をあげるけど、何もしないで貰えると思っちゃダメだよ、社会(地域)に貢献するから貰えるんだよ」という事を身をもって学ぶわけです。
言い変えれば、「ギブアンドテイク」のシステムを学ぶという事(与えるから貰える)。
※アメフトはアメリカの国技で、大学チームも地元をあげて応援します。だから地域貢献になるという考え方です。
それに対して、学費が免除になるレベルの優秀な生徒以外(給付型奨学金以外)、日本の大学の貸与型奨学金の多くは、ある意味借金のようなものです(返済時に利子が付く場合もあります)。
いま音大だけではなく、卒業しても派遣社員やアルバイトで正社員になれず、奨学金や教育ローンの返済が出来なくなる事態が社会問題となっています。
音大を卒業したほとんどの人は、新卒の年から就職した人と同程度の給料を得るのは難しいと思います。同窓会や結婚式で友人と再会したら、一般大を卒業して就職した同級生たちと収入で大きな差が付いてしまったというような話はよく聞きますよね。
こんな状況で奨学金やローンを本人が自力で払うのはほぼ不可能だと言っても過言ではありません。
※教育ローンは金融機関が親の返済能力を判断して貸しますが、貸与型奨学金はそれがない事で返済地獄に陥っている場合があります。
このブログのタイトルに「サバイバル」という言葉を使っていますが、音楽家にとってこれは大げさではなく、現実なんです。
これから音大を目指す人やその親御さんは、教育ローンと同様、借金をしている = 卒業したら働いて返済をしないといけない、という現実をしっかりみる必要があるのではないでしょうか。
税金への理解も必要
毎年この時期になるとテレビコマーシャルでも見かけますが、フリーランスは「確定申告」という作業をします。
若い音楽家の皆さん、やっていますか?(そもそも「確定申告」を知っていますか?)
知らない人はとりあえずググって調べてみてください。
税金の説明は本職の税理士さんでないと難しいのですが、あえて音楽家の立場でシンプルに説明すると、
企業の正社員のような形で就職していない場合、つまりフリーランス(個人事業主)は自分がその年いくら稼いだのか税務署に申告して、それによって納税額が変わってくるという話です。その申告が「確定申告」で、所得によって課税されたり還付(返金)されたりします。
※企業に就職している場合、「年末調整」という形で、会社がやってくれています。
コンビニやスーパーで食品を買った時、レストランで食事をした時、映画館で映画を観た時などに8%の消費税が取られているのはさすがにご存知かと思いますが(今年の10月から10%になる予定です)、それ以外にも市民税や県民税(区民税や都民税)のほか、国や地方自治体に納めないといけない税金はたくさんあります。
では、なぜ税金が必要なんでしょうか?
税金がないと、皆さんが利用する高速道路が整備されなかったり、健康保険で医療サービスを受けられなかったり、国公立大学の運営が出来なかったり、おじいちゃんおばあちゃんの年金が払えない(自分がその歳になった時に受け取れない)からです。
納税は国民の義務なんです。
アメリカでは学生のころからお金の勉強をし「ギブアンドテイク」を学ぶという話をしました。
税金はまさに「ギブアンドテイク」です。
(この場合は「払うから貰える」です)
確定申告の話に戻りますが、とあるそこそこ有名な先輩ミュージシャンが、SNSで「確定申告、無事終わって全額還付されました!」と喜びのコメントを書いていました。
プラスに解釈すれば「うまく節税出来ました」かもしれませんが、裏を返せば「自分の収入が低くて課税されず、全額返金されました」とネットでアピールしているんです。
もっと言えば、国民の義務を果たしていないという事、「ギブ」していないのに「テイク」しているアピールだという事ですよね。
「こんな状況で自分の好きな事をやっている(音楽を生業にしている)プロですと名乗るのは恥ずかしい、自分はそうならないように、音楽だけでなく、ビジネス、つまりお金の勉強をしよう」
と思いました。
もしもこんな人が政治に文句を言っていたらおかしいと思いませんか?
「与党と野党でつまらない足の引っ張り合いしたり、不正な献金とかカネの問題ばっかり追及してないで、もっと教育とか保育所の待機児童問題とか、国の未来を考えてよ、文化にお金を使ってよ!」
という文句は、国民の義務を果たしているからこそ言える話なんです。
皆さんもぜひ「納税出来る音楽家」を目指してください。
ただ、若いうちから納税出来るレベルになるのは容易ではありません。
まずはきちんと「確定申告」をして、払い過ぎている税金を取り戻してください。
もしかしたら自分の演奏の報酬から税金が引かれていて、それを取り戻せる事を知らない人もいるでしょうね。
場合によってはその還付金で楽器が一本買えるんですよ!
音大卒業後にほとんどの人がフリーランスになるのに、こんな大切な事を教えない日本の教育機関は本当に困ったものです。
お金を稼ぐ事が人生の目的になってはいけない
ここまで口を酸っぱくお金、お金と書いてきましたが、真逆の事を言います。
お金が一番になってはいけません!
お金は「ギブ」の結果「テイク」出来るもの、あくまで「対価」(二番目)なんです。お金持ちでも心が寂しい人もいれば、そうでなくても幸せに生きている人もいますよね。
ちなみにiPhoneでおなじみのAppleの創始者のスティーブ・ジョブズ氏は「世の中の役に立つものを作りたいという人生の目的があって、結果成功し、億万長者になった」そうです。
「鶏が先か卵が先か」みたいな話ですが、決して「お金持ちになるために人の役に立つものを作ったんじゃない」という話ですね。
『A or B/あなたが選択すべき人生の分かれ道』Vol.6 諦めない勇気 or 諦める勇気
↑
ここにも書いた「人生の目的」があり、その手段で世の中に貢献した結果、対価としてお金が入ってくるという考え方です。
ただ漠然と「稼ぎたい」と考えている人よりも、「目的を持って人の役に立とうと努力し、なおかつお金ともシビアに向き合った人が、結果成功している」と僕は考えています。
※僕がこうしてネクストステージ・プロジェクトのようなNPO法人や震災の復興支援、発展途上国の貧困支援といった活動しているのも、アメリカでの経験なども含め、受けた恩(テイク)を返そう(ギブしよう)と思っているから、ただそれだけです。
次回へ続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.8『信用』
前回記事:NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(上)
あけましておめでとうございます。
昨年は皆さんにとってどんな年でしたか?
「一年の計は元旦にあり」という言葉があります。
このシリーズNSU(Next Stage University )教育学部のVol.1(→NSU教育学部 Vol.1『目的と手段』)にも書きましたが、「目的」をしっかり持つ事で「手段」がより明確になりますよ。
元旦は過ぎていますが、
「将来○○を実現するために、今年はこんな事をしよう、こんな年にしよう」というような計画をぜひ立ててみてくださいね。
さて今回は、シリーズNSU教育学部第7弾です。
年始という事で、皆さんに「お年玉」を!
といっても現金をあげるわけにはいかないので(笑)、将来の役に立つ「お金」の話をしたいと思います。
お金ときちんと向き合ってほしい
過去の記事でも、フリーランスの音楽家は個人事業主、つまり「ビジネス」である事を書きました。
日本はお金の話をするのがタブーという考え方が根強く残っているので(特に芸能関係)、目を背けたくなるかもしれませんが、「個人事業主」は特に、しっかりとお金と向き合っていく必要があります。
アメリカのお金の教育
このNSU教育学部のシリーズでは、「欧米との教育の違い」(→NSU教育学部 Vol.3『日本と欧米の教育の違い』)についても触れましたが、昨年アメリカのニュースでこんな話題が取り上げられていました。
『13歳の少年が、自宅の前で無許可でホットドッグ屋さんをやろうとして通報されたけど、市の衛生局が「ダメ」と言わず、起業支援しているNPOにも協力してもらい、この子がビジネス出来るようにしてあげた』
というお話です。
なんともアメリカっぽいエピソードというか、日本ではまずあり得ないですよね。何が言いたいかと言うと、
「アメリカではこれくらいの子どもでもお金を稼ごうとする、稼ぐ方法を身をもって体験、学習している」
と言う事。まさに「生きた教育」ですよね。
僕は高卒ですが、少なくとも日本で高校までの間に「お金を稼ぐ方法」や「税金(納税)について」の授業などはなかったと記憶しています。
※税金については社会の授業で触れてはいますが、そんなに詳しくはなかったと思います。
日本はなんだかんだ言っても裕福で、未成年の子どもがお金を稼ぐ必要がないのも理由かもしれません(少し話が逸れますが、発展途上国では特に、子どもが学校に行くより家計を助けるために働く事を優先せざるを得ない状況にあります)。
アメリカの大学では?
もう一つの例ですが、アメリカの大学にはTA(Teaching Assistant)、GA(Graduate Assistant)という制度があります。
ざっくり説明すると、大学院生になったら教授のアシスタントのような形で生徒(クラス)を持って、学費が免除になり、給料も貰えるという制度です。
僕の記憶と、つたない英語力での認識ではTAが修士課程の生徒、GAが博士課程の生徒だったような気がします。自分がやっていたのではなく、受けていた側なので、もしかしたら100%正確でないかもしれません(ご存知の方、情報をお待ちしています)。
ただ、大学院生になったら実際に先生の立場になり、給料(もしくは返済不要の奨学金?)が貰えるというのは当たらずとも遠からずだと思います。
日本の教育実習で報酬は発生しないですよね。
優秀な大学院生の学費が免除されるのはあるかもしれませんが、学生が学内で教えながらお金を得るというシステムは、日本には存在しないのではないでしょうか。
僕が在籍していたアメリカの総合大学でも、音楽科のアシスタントの大学院生が実際にレッスンをしたり、バンドで指揮を振ったり、音楽史のような副科のクラスを持っていました。
つまり、教育実習のような事をやりながら、「お金を稼ぐ」勉強、実体験もしているんです。
この件に関して僕はヨーロッパの事情はわからないですが、少なくともアメリカはこの例を見ても「実践的なお金の勉強をかなり早い段階からしている」と言えます。
日本で私立の音大に通っている人(通っていた人)は、そもそも裕福な家庭も多いし、そうでないにしても、子どもに練習時間をたくさん作ってあげるために親御さんが頑張って働いてアルバイトをさせなかったとか、実家通いが幸いし、働かないで済んだというケースもあると思います。
そういう人は、お金を稼ぐ勉強、実体験が欠落している可能性があります。
『フリーランスで成功するための“10の秘訣”』
Vol.5 自分の価値がわかっている/お金の価値がわかっている
↑
ここにも書きましたが、お金の価値を理解し、自分の市場価値がわからないと、ギャラの交渉も出来ません(だから僕は、早い段階でのアルバイト経験を推奨しています)。
何でも言われるがままに仕事を受けてしまって安売りしてしまう可能性もあるし、自分の実力や相場の自己判断を誤って高いギャラを要求し、「じゃあいりません、ほかの人にお願いします」となる可能性もありますよね。
給料を貰える現場はまだ良いですが、そうでないフリーランスがお金にシビアになるのは本来必然なんです。
Vol.1 可能性が無限大の“フリーランス”という生き方 / 佐藤秀徳さん(トランペット)
Vol.3 演奏機会が少ない楽器だから、自分のポジションは自分で作る / 円能寺博行さん(ユーフォニアム)
↑
彼らのインタビューも参考になりますよ!
次回は日本の奨学金や税金の制度など、お金についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
次回記事:NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(下)
前回記事:NSU教育学部 Vol.6『辛抱と我慢』
シリーズNSU(Next Stage University )教育学部第6弾です。
前回の記事(→NSU教育学部 Vol.5『自分と他人』)では、自分との付き合い方、他人との関わり方について僕なりの考えを書かせていただきました。
自分と他人と上手に付き合うには、初回記事「目的と手段」(→NSU教育学部 Vol.1『目的と手段』)の考え方の理解が絶対条件、大前提となります。
今回はそれをふまえ「辛抱と我慢」の話をしてみましょう。
あなた自身の「人生の目的」を達成するための「手段」。
それは「辛抱」なんでしょうか、「我慢」なんでしょうか。
辛抱と我慢の違いは?
僕個人のイメージかもしれませんが、「辛抱」にはポジティブなイメージがあり、「我慢」にはネガティブなイメージがあります。どう違うかわかりますか?
『辛抱』→将来人生で成し遂げたい目的があり、その手段として「辛抱」している。
『我慢』→将来の目的がなく、その日その日をなんとなく生きている。だから、自分がやりたくない事でも「我慢」をしなくてはいけない。もしくは目的に合わない手段を取っている。
僕にはこんな違いを感じるんです。
音楽家で例えた場合、
『辛抱』→将来自分は人を感動させる音楽家になりたい。だから「辛抱」して練習を頑張るんだ!
『我慢』→練習しないと先生に怒られる、だから「我慢」して、先生に怒られないように練習しよう。
この違いだと思うのです。
どちらがよりポジティブ(能動的)であり、どちらがネガティブ(受動的)であるかは一目瞭然だと思います。
仮にお客様(聴衆、リスナー)の立場であった場合、どちらの音楽を聴きたいか、どちらの音楽で感動出来るかという話でもありますよね。
日本人には「我慢」が多い
このシリーズの中でも、日本は受け身な人が多いという話をしてきました。
つまり「我慢」の人が多いのです。
あまり良い例えではないかもしれませんが、太平洋戦争中には「欲しがりません、勝つまでは」という言葉がありました。
僕にはこれはネガティブなイメージで、「辛抱」ではなく、「我慢」だと感じます。
この平和な、自由な世の中で、「我慢」はナンセンスだと思いませんか?
(「辛抱」には自由があり、「我慢」には自由がありません)
『A or B/あなたが選択すべき人生の分かれ道』 Vol.6 諦めない勇気 or 諦める勇気
↑
この記事にも書いた「諦める勇気」や、前回書いた「NOを伝える能力」も大切です。
「目的」が明確になれば、適切な「手段」が取れます。その手段として必要なければ、潔く諦めたり、NOを言えば良いだけの事ですよね。無意味な「我慢」は必要ありません。
「好きこそ物の上手なれ」ということわざもありますが、自分の好きな事をやっている時(目的に向かってまっすぐ進んでいる状態)はまさに生きがいなわけです。少しくらい辛くても「辛抱」が出来ます。
ネクストステージ・プロジェクトで学ぶ「辛抱」のあり方
ネクストステージ・プロジェクトでは、若い音楽家が自立出来るようにするため、スタッフには演奏以外のさまざまなスキルを身に付けるトレーニングを実践の場で学んでもらっています(※現在は募集していません)。
楽器の演奏がただただ楽しくて続けてきた人も、プロの音楽家として自立するためには、演奏以外に必要なスキルが山のようにあります。
そもそも音楽家になろうという人たちは、演奏技術が人より秀でていた可能性は高いですよね。逆に言えば、それ以外の部分(お金の管理や、言葉、文章で何かを伝えるスキルなど)は正直苦手だという人も多いと思います。
そんな人たちはうちでのトレーニングで現実に直面するのですが、「絶対に音楽家として自立してやるんだ!」という強い想いのある人にとって、苦手な事を頑張るのは「辛抱」なんです。
「生演奏の事例」の記事一覧
↑
演奏案件ごとに同行マネージャーにはこのようなブログを書いてもらっていますが、「イベントを文字でリアルに表現する、クライアント様や奏者に感謝の気持ちを伝える文章を書くスキル」は、結果自分自身の「自己PR」のスキルになるわけです(自分のホームページやSNSの見せ方が変わり、結果仕事に結びつきます)。
逆に、目的を明確にしていない人にとっては「なんでこんなことまでやらなきゃいけないんだ、自分は演奏だけやってたいのに」という感じで、苦痛、つまり「我慢」でしかありません。
皆さんのこれまでの人生でも「辛抱」なのか「我慢」なのかによって、将来得られる未来が変わったという体験があるのではないでしょうか。
家庭で実践出来る「辛抱」の教育
家庭でも、お母さんが子どもに対して「晩ごはんの時間が近いんだから、いまそんなにおやつを食べちゃダメ!」と叱るシチュエーションってありますよね。
この時、なんの理由も説明する事なくおやつを食べちゃダメと叱るのは、子どもにとっては「我慢を強いられる」状態です。
年齢によって伝え方は変わると思いますが、「子どもの成長に必要な栄養を十分に摂取出来るのはおやつのスナック菓子じゃなくて晩ごはん。いまお腹いっぱいになったらあなたの成長に良くない、だから辛抱しなさい」
こう言えば子どもはより理解するし、親子の信頼関係も築けるはずです。
実際このような形で「辛抱」し、おやつに手を出さずにいられた子のほうが成績が良くなる傾向があるというデータもあるそうですよ。
また「ストレス」という言葉も、基本的にはネガティブなイメージを持つ人が多いと思いますが「快感のストレス」と「苦痛のストレス」があります。
親御さんが無理やり子どもにピアノを習わせていたら、その練習は「我慢」(苦痛のストレス)ですが、子ども自身が「将来はピアニストになるんだ!」と夢を持って練習をしていたら、多少の壁にぶつかってもそれは「辛抱」(快感のストレス)ですよね。
自分がいま「辛抱」しているのか、「我慢」を強いられているのか。他人に対して「辛抱」を要求(その人のために)しているのか、「我慢」させてしまっているのか。
この事をより意識出来れば、もっと生きやすくなり(人間関係もスムーズになり)、手に入れたい未来に繋がっていくのではないでしょうか。
次回へ続く
次回記事:NSU教育学部 Vol.7『お金の教育』(上)
前回記事:NSU教育学部 Vol.5『自分と他人』
シリーズNSU(Next Stage University )教育学部第5弾です。
このシリーズではここまで、「行動を起こす前に目的を明確にする事」、「カリキュラムやマニュアルに縛られず、柔軟な行動をする事」、「日本と欧米の教育の違い」、そして「どうように欧米の教育を取り入れるのが理想的か」というお話をしてきました。
教育の大きな目的は「自立」です。
その「手段」として、学力(音楽で言えば楽器などの技術)を上げる事は必要不可欠だと思いますが、もっと大切な事は何でしょうか?
それはズバリ「人間関係、対人関係を築くスキル」だと思います。
僕の解釈では、対人関係における立場、位置付けは
- 自分
- 他人
この2つしかありません。
「自分」は説明するまでもなく「わたし(自身)」であり、「他人」とは、親、兄弟、恋人、配偶者を含む、「自分以外のすべての人」を指します。
とてもシンプルな話ですよね。
人間関係は、自分以外に1人以上、他人が関わった時に生まれるものですが、実際には決してシンプルとは言えず、僕も含め、多くの人が「自分との付き合い方」、「他人との関わり方」で苦労しているのではないでしょうか。
「自分を大切にする行動」と「自分勝手な行動」の違いは?
皆さん、「自分を大切にする行動」と、「自分勝手な行動」の違いを意識した事はありますか?
多くの人はアルバイトの経験があると思うので、それを題材に解説してみます。たとえば、
『アルバイトを休む、辞める』
この行動って自分を大切にしていますか、それとも自分勝手ですか?
そんなのこれだけではわからないですよね。なぜでしょうか?
それは、ここに「他人との関わり方」の説明がないからです。
では、次の例はいかがでしょう?
A:面接で週2回勤務で良いと言われて働き始めたのに、入ってみたらとてもブラックなところだたった。ほかの子が辞めて人手が足りないなど、なんだかんだ理由をつけられて週6で入ってくれと頼まれたが、きちんとNOを伝えて「休む」(週2ペースを守る)、もしくは、実際に週6で働かされ、練習、本業どころではなくなってしまったので、さっさと「辞める」。
もっとシンプルに、インフルエンザになってしまったので、事情を話して「休む」。
B:楽だと思って始めてみたらお客様や上司からは怒られてキツイし、期待通りにいかなくて楽しくもないので(無断で)「休む」、または、入ってすぐに「辞める」。
一目瞭然だと思いますが、Aは「自分を大切にする行動が出来る人」、Bは「自分勝手な行動の人」ですよね。
まったく同じ「アルバイトを休む、辞める」という行動をとったとしても、「他人」が1人でも関わる事によって、AにもBにもなり得るという事がわかってもらえると思います。
(インフルエンザで来られたら周りが迷惑ですよね)
「他人を思いやる行動」と「他人の目を気にする行動」の違いは?
今度は「他人側」から同じ事例を検証してみましょう。
A:働いているお店の経営者や仲間もとても良い人で、社会勉強にもなっている。メインで働いていた人が病気でしばらく休む事になったので、その間だけならこのお店を助けたい。少し増えるだけなら練習の妨げにもならないし、むしろ収入がアップして助かるので、週4以内で働かせてもらおう。
B:一応週2で良いと言われて働き始めたけど、経営者は怖くて言う事を聞くしかない。周りのバイト仲間は日数を増やしたくないと言っているので、結局自分が入るしかない。結局週6で働く事になった。
こちらも一目瞭然で、Aが「他人を思いやる行動」で、Bが「他人の目を気にする行動」と言えますね。
人生で起きるすべての出来事は常に「自分だけ」という一方通行はありえないのです。
「いやいや、自分は一人暮らしで、朝何時に起きようがご飯を食べようが関係ない、ここには他人は関係ないじゃないか」という言い分もあるかもしれませんが、その時間寝ていられるのは、働いている人であれば、その日は休みという他人との契約があるからだし、そこで寝ていられるのは、賃貸契約なり、誰か他人との約束事があります。そして、自給自足でもない限り、基本的にご飯(の原料)は他人が作ったものです。
つまり、無人島で1人で生活をしている人以外、必ずそこには「自分」、「他人」という「人間関係、対人関係」があるんですね。そして、対人関係には「対」という字が使われていると思いますが、「自分」と「他人」は常に「対」になっている事に気付きます。
A:自分を大切にしている人は、他人を大切にしている
(他人を大切に出来る人は、自分も大切に出来ている)
B:自分勝手な人は、他人の目を気にして生きている
(他人の目を気にして生きている人は、人に迷惑をかけていても気付かない)
この法則が成り立つと思います。
自分を大切にしている人が他人の目を気にして生きていたり、自分勝手な人が他人を大切にしているという事は絶対に起きないと断言出来ます。
皆さんはAタイプ、Bタイプのどちらになりたいですか?
良好な人間関係を築くという事はすなわち「信頼関係」を築く事ですよね。
僕は、Aタイプの人のほうがそれを実現させる可能性が高いというか、Bタイプでは不可能だと思うので、間違いなくAタイプを目指します。
最初に「他人は親、兄弟、恋人、配偶者を含む」と書きましたが、「信頼関係の深さ」によって、良好かそうでないかは変わってくるので、身内でも仲が悪いケースもあれば、あかの他人でもとても仲が良い場合もあります。
つまり、AタイプかBタイプかというだけのシンプルな話で、僕自身は身内かそうでないか、国籍や性別、先輩か後輩か、上司か部下かなどは関係なく、本当にどうでも良いと思っています。
Aタイプを目指し、そこに「信頼関係」を築けるか、ただそれだけです。
『A or B/あなたが選択すべき人生の分かれ道』Vol.6 諦めない勇気 or 諦める勇気
↑
この記事にも書きましたが、たとえば音大に行ってみたら才能のある友人との差を歴然と感じたり、ほかに興味のある事や得意な事が見付かったので軌道修正したいと思うようになった。でも、親御さんに高い学費を出してもらったのが申し訳ないし、周りがみんな、自分はプロになると思っているので、恥ずかしくて辞められない。
こんな人はBタイプです。
Aタイプの人は「自分の人生を生きている人」、Bタイプの人は「他人の人生を生きている人」です。
日本の社会では、目的を考えずに手段を取り、マニュアル化された教育で個性をなくし、他人との違いを評価されず、否定され、人間関係を築くために他人の目を気にして生きている人、こんな人がとても多いと感じます。
2020年の東京オリンピック誘致のプレゼンで「お・も・て・な・し」が話題になりましたが、実際は「思いやりがないわりに、他人の目を気にして生きている人が多い」気がしています。
国を引っ張っているはずの政治家にも多いと感じるし、音楽の世界もまた例外ではないと思いますね。
「自分との付き合い方」と「他人との関わり方」をもう一度見直す事で、私たちの人生はもっと生きやすいものになるのではないでしょうか。
『フリーランスで成功するための”10の秘訣”』Vol.4 コミュニケーション能力がある
↑
今回の記事をふまえ、改めてこれを読んでいただくと理解が深まるかもしれません。
次回記事:NSU教育学部 Vol.6『辛抱と我慢』
前回記事:NSU教育学部 Vol.4『欧米の教育の取り入れ方』
前回記事「日本と欧米の教育の違い」(→NSU教育学部 Vol.3『日本と欧米の教育の違い』)の中で、大坂なおみ選手とコーチの関係には上下関係がなく、また、彼女を徹底的に褒めて伸ばし、結果を出している事などを紹介しました。
ですが、
“そもそも「国民性」というものもあるので、例えば上下関係をすべて取っ払ったり、極端なポジティブシンキングを日本に取り入れたとしても、うまく機能するとは言えないと思います。”
こんな意見も書かせていただきました。
今回はこの点について、もう少し掘り下げてみます。
国民性とは?
そもそも「国民性」って何でしょうか?
もっと簡単な言葉に置き換えれば「その国らしさ」だと僕は思っています。
当たり前の話ですが、我々の身の回りには「日本らしい」ところがたくさんあり、「日本人らしさ」も存在します。
島国でほぼ単一の民族であり、日本語という独自の言葉で国民全員意思の疎通が出来ると言っても過言ではありません。
欧米ほど信心深い人は少ないものの、神社やお寺がたくさんあります。お寿司やそばなどといった和食の文化もありますよね。
何が言いたいかと言うと、
日本には日本の良いところがたくさんあるので、それらを大切にしつつ、欧米の良いところを取り入れましょう
という事。
僕自身、いま住んでいる家に和室はなく洋室のフローリングだし、トイレも洋式のほうが便利だと感じていますが、さすがに部屋に入る時、靴は脱ぎます。これは日本の文化、習慣ですよね。よほど欧米文化に溶け込んでいる人は別ですが、ほとんどの人は、ここは日本を尊重しているのではないでしょうか。靴を脱ぐほうが衛生的で、日本の良い習慣です。
これと同じように、「目上の人を敬う」というのも日本の習慣であり、これ自体は良い事だと思ってます。
年や立場が上というだけで絶対的な権力を持っている会社の上司や、問題になっている大学スポーツの監督のパワハラのような状態が良くないのは言うまでもないですが、日本には「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があるくらいで、欧米レベルの友達のような関係は一般的な日本の社会では成立しません。
僕は後輩や若手の音楽家に「上下関係はそんなに気にしないよ」という話をするのですが、だからと言って初対面からタメ口なのは失礼だし、ましてや呼び捨てはあり得ませんよね(逆に、言葉遣いは異常に丁寧だけど、言葉の裏にまったく敬意を感じない言動をする失礼な若手もいますが)。
『フリーランスで成功するための”10の秘訣”』Vol.1 謙虚さ、感謝がある、謝罪ができる
↑
このシリーズで書いた内容は、フリーランスの音楽家に限らず、一人の社会人として基本になる話です。音楽家である以前にこういった事がきちんと出来ていて、なおかつ演奏技術が備わっている。そういう人は仮に僕より若手であっても尊敬出来るので、対等でありたいと思っています。
大切なのはやはり「信頼関係が出来ているか」。
これに尽きると思います。
その信頼関係を築くためには、一般常識をあわせ持ち「自分はこういう考え、信念を持って生きている、音楽をやっている」というようなアイデンティティーが見える事(相手に伝わる事)が大切だと思います。
受け身、引っ込み思案の日本人はほとんどこれが見えてこないので、結局は保守的、封建的な上下関係の中に埋れてしまうのではないでしょうか。
ただ褒めれば良いというものではない
日本には「謙遜」という文化があります。
仮に何か褒められても、「いえいえ、自分はまだまだです」とか「今日の演奏はここがダメでした」みたいになりますよね。
「謙虚」と「謙遜」は別物。度が過ぎた謙遜は自分の自信のなさを隠すためのカモフラージュで、向上心には繋がらないという話は以前にも書きましたが、日本人はもう少し自信を持ち、褒められる事を受け入れても良いかな?とは感じています。
ただ、これも先ほど書いた話と同じで、日本に靴を脱ぐという文化が浸透している中で、いきなり土足文化に変化する事はあり得ません。
ある日突然、周りの人が何でもかんでも自分を褒めるようになっても受け入れられないというか、気持ち悪くないですか?
良くも悪くも「以心伝心」(言葉はなくても相手に想いが伝わる)とか、本音を言わない文化の日本で、極端なポジティブシンキングや、とにかく褒めちぎるという教育は嘘臭くて、僕はそういう人と信頼関係を築ける気がしません。
対等な人間関係を築くためには?
僕は自分より年上の社会人の生徒さんがたくさんいます。中には社長クラスの人もいます。
もちろん人生の先輩としては尊敬していますが、音楽の経験はこちらのほうが上なので、その部分に関してはプロ意識、責任を持ち、対等な人間関係を築くようにしています。
良いところがあれば褒めるようにはしていますが、逆に良くないところはきちんと指摘をします。これは音楽の事だけではなく、例えばグループレッスンの中でほかの生徒さんへの配慮がなく、和を乱す行動をしていると判断した場合は、年上であろうと、社長であろうと注意しますね。
生徒さんのほうがお客さんであっても、趣味であっても、無断欠席や遅刻もルール違反だと思うので、そういう場合も注意をし、何度も続くようだと、最悪退会していただく場合もあります。
当然目上の人とも対等な関係を築くためには、自分自身が社会人として常識のある行動をとっている事は最低条件です。
相手が誰であっても信頼関係を築き、褒めるところは褒める。でも、注意すべき事は注意する(自分の意見はしっかり主張する)。ただこれだけですよね。僕の場合は、このようにハッキリしたポリシーを持って行動しているので、自分の周りにいる人とは良い人間関係が築けていると思います(合わない人は自然に自分の周りからいなくなるので、ストレスは少ないと思います)。
今回の内容をまとめると、
日本と欧米には文化、習慣の違いはあるものの、欧米にも立場上の上下関係は存在するし(親しき仲にも礼儀ありだし)、何でもかんでもただ褒めているだけではない
という事です。
文化や習慣を取っ払って考える事自体ナンセンスなのに、そこにまったく触れず、上下関係をなくしたり、極端なポジティブシンキング、ただ褒めるだけの教育にしてしまったら、おそらく日本の社会は崩壊するし、せっかくの日本人らしさがなくなってしまうでしょう。
何でも欧米の真似をすれば良いという話ではありません。
日本人は(特に白人への)外国人コンプレックスの人が多いので、何でも自分たちより欧米のほうが優れていると感じてしまうんですよね。
かと思えば、料理の世界では、(インドの)カレー、(中国の)ラーメン、(イタリアの)パスタなどはとても上手にアレンジされて、もはや「和食」の一部と言っても過言ではありません。
最初にも書きましたが、
欧米(だけでなく諸外国の)の良いところを受け入れつつも、それを日本の文化、習慣にどう置き換えられるか、取り入れられるかをよく考えて、自分流(日本流)にアレンジしていく教育が大切なのではないでしょうか。
次回記事:NSU教育学部 Vol.5『自分と他人』
前回記事:NSU教育学部 Vol.3『日本と欧米の教育の違い』
シリーズNSU(Next Stage University)教育学部第3弾です。
先日、テニスの大坂なおみ選手が全米オープンで優勝し、一躍時の人となったのは記憶に新しいと思います。日本人アスリートが世界のトップになった事はとても誇らしい事ですよね。
メディアでは、彼女のコーチであるサーシャ・バイン氏についても取り上げられていましたが、最近いろいろな日本のスポーツ界で話題になっている暴力や不祥事、パワハラなどさまざまな問題とは随分差があると感じた人も多いのではないでしょうか。
彼のコーチングはまさに、欧米の良い教育の典型だなあと感じました。
今回はこのサーシャコーチを一部参考にしながら、僕が感じている日本と欧米の教育の違いについて考えてみたいと思います。
日本は絶対的な上下関係があるけど、、、
前回記事『カリキュラム教育のメリット・デメリット | NSU教育学部 Vol.2』でも少し触れましたが、日本は年功序列の意識が強く、「目上の人を敬う事」を子どものころから厳しく教えられます。落語や歌舞伎といった伝統芸能の世界では、たとえ親子であっても厳しい「師匠と弟子」の関係があるのはよく知られていますよね。
つまり、絶対的な上下関係が存在しているのです。
音大で勉強する声楽や器楽はほとんど西洋から入ってきた音楽であるにもかかわらず、日本の習慣や価値観と相まって、師匠と弟子という言葉が普通に使われ、実際「先輩や先生には絶対逆らえない」というような主従関係が存在しているところもまだまだあると感じます。
それに対し、大坂なおみ選手とサーシャコーチの関係は、まるで友達みたいですよね。欧米では「先生も生徒も共に、平等に学ぶ」という感覚が強いのではないかと思います。
よく音楽家のプロフィールに「○○氏に師事」と書いてありますが、これを英語で書くと、
Hiroki learned (studied) “from” Mr. ○○ .
となるような気がしませんか?実際には、
Hiroki learned (studied) “with” ○○ .
となります。”from”は「○○氏から学びました」という一方通行であるのに対して、”with”は「○○と一緒に学びました」という意味になりますよね。さらに”Mr.”などは使わず、ざっくり言えば「先生を呼び捨て」にします。
僕はアメリカ留学中にこのプロフィールの書き方を見た時、日本と欧米の教育の違いを実感しました。このような関係性があるからこそ、生徒や選手は伸び伸びと練習が出来、(大坂なおみ選手のような)結果が出せるのではないかと思います。
冒頭で触れた日本のスポーツ界のパワハラ問題ですが、年下や社会的立場の低い人間が間違いを指摘しても、上にいる立場の人間が、「自分たちが正しい」と言ってもみ消してしまうような事がまかり通っていたからこそ、これまで公にならなかったとも考えられます。
※欧米に全く上下関係がないわけではありません。日本的に言えば「親しき仲にも礼儀あり」だと思います。誤解のないようにお願いします。
日本はやってはいけない事から教えるけど、、、
次に、日本の教育で典型だと思うのは、「○○しなければいけない」や、「○○してはいけない」という「否定形」で教える事が多い点。
皆さんも英語の授業で、文法通り(教科書通り)に回答しないと不正解になり、テストで良い点を取れなかったという経験がありませんか?
文法通りにきちんと喋ろうなどと思っていては、とっさの時に言葉が出てきません。
僕がアメリカで在籍していた語学学校の先生は、「便宜上正しい文法を教えるけど、ネイティブの人がこの通り話しているとは限らないよ。皆さんよりブロークンな英語を話している場合もあります」と言っていました。
実際アメリカの空港でも、「This is your bag?」と語尾を上げただけで質問してくる職員もいました。文法的には「Is this your bag?」が正解ですが、語尾が上がって疑問形になっていれば(ジェスチャーもあれば)、「これはあなたのバッグなの?」という意味は通じますよね。
日本の教育では、「外国人とコミュニケーションを取る」という一番大切な「目的」が忘れられ、「テストで良い点を取るためだけ」の英語教育になり(「手段」が先行し)、結果これだけ膨大な英語教育を行っているにもかかわらず、多くの人が話せないんです。
もう一つは音楽での例ですが、僕は生徒さんに自分で考えさせるために(一方通行にならないために)、「いまの演奏、自分でどう思った?」と尋ねるようにしています。
この質問をした時、ほとんどの生徒さんが自分の悪いところしか言いません。
「良いところもあったでしょ?」と言って、何か言わせようとしますが、出てきません。仕方ないのでこちらから「ここが良かったよ」と伝えても、なんだか納得がいかないような、不機嫌そうな顔をしています。
これは「謙遜が美徳とされる習慣」によるもので、早い話が褒められ慣れてないという事ですよね。
「反省していたほうが良い子に見える」からかもしれません。
※ちなみに謙遜と謙虚は別物です。
参考:謙虚さ、感謝がある、謝罪が出来る『フリーランスで成功するための“10の秘訣”』 Vol.1
僕の質問は「どう思ったか」を聞いているだけで、決して「反省点を述べてください」ではないんです。
これに対して、欧米では「良いところを褒めて伸ばす」やり方が浸透していると思います。
サーシャコーチが日本人の感覚からすると、口説いてるのかと誤解するほど徹底して大坂なおみ選手の良いところを褒めたり、「君なら出来る!」というような「肯定形」の言葉を使っていたりしたのがとても印象的でした。
英会話に限った話ではなく、やってはいけない事ばっかり先に言われてしまうと萎縮して行動出来なくなりますよね。これと同じ事が、教育の場でも、職場でも起きているのではないでしょうか(受け身な人間の大量生産になります)。
日本は一つの正解しか求めないけど、、、
前述の演奏に関する自己採点ですが、あたかも初めから「いまのはミストーンをした、音程が悪かった」など、「反省点を言うべき」と答えが決まっているかのような問いかけをするのが日本の教育のように感じます。
音楽でなくても、「この問題の答えがわかる人?」と聞くのが日本の教育で、欧米はというと、「この問題について、あなたはどう思う?」というような聞き方をします。この違いがわかりますか?
日本の場合、一つしかないその正解を発表出来なければ「良い子」だと評価されないんです。
欧米はそうではなく、自分の考え、意思を発表出来れば、極端な話、どんな答えをしても、何も答えない人よりは評価されます(積極性を買われます)。
日本では先生に導かれた無難な答え方をし、悪目立ちしない子が評価され、欧米では価値観に柔軟性があり、ユニークな人間が評価される、この違いは大人になって社会に出た時、大きな差を生むと考えられます。
せっかく可能性を持ったユニークなアイディアを持ってても「出る杭は打たれる」社会って、僕には生産性がない、つまらない社会だと感じてしまいますね。
多様な価値観を身に付けよう!
ここまで書いてきた内容は、あくまで僕が体験してきた日本と欧米の教育の違いです。
日本でも伸び伸び教育を受けてきた人もいると思うし、逆に、欧米でも厳しくしばりつけられた人もいるかもしれませんので、個人的感覚や傾向のようなものである事はご理解いただきたいと思います。
※実際、ハリウッドなどの映画業界でもパワハラ、セクハラは問題になっています。人種差別の意識が強いところもあるようです。
前回シリーズの「留学する? or 日本にとどまる?」(→『留学する? or 日本にとどまる?』A or B/あなたが選択すべき人生の分かれ道 Vol.4)でも書いたように、あなたがもし海外生活を体験したら、僕とはまた違うものになるでしょう。でも、日本だけでは体験出来ない文化、習慣、価値観に触れ、あなたのキャパシティーが広がる事は間違いないと思います。
もう一つ、決して誤解してほしくないのは、僕は日本がすべて間違っていて、欧米が日本より優れているとは思っていません。逆に世界が日本に一目置いているように、素晴らしいところもたくさんあります。
そもそも「国民性」というものもあるので、例えば上下関係をすべて取っ払ったり、極端なポジティブシンキングを日本に取り入れたりしたとしても、うまく機能するとは断言出来ないと思います。
しかしながら、グローバル化していく社会の中で、欧米から(もっと言えば、発展途上国を含む世界各国から)学ぶ事はたくさんあるし、自分と違う考え方を知り、多様な価値観を受け入れる柔軟性やそれを使って社会を作っていくスキルは、これからいま以上に大切になるのではないでしょうか。
次回記事:欧米の教育の取り入れ方 | NSU教育学部 Vol.4
前回記事:カリキュラム教育のメリット・デメリット | NSU教育学部 Vol.2
シリーズNSU(Next Stage University)教育学部第2弾です。
突然ですが、皆さんが仕事や旅行で目的地を目指す時、地図を使う事はよくあると思います。朝早くに初めての現場に行く時などは(絶対に遅刻出来ないので)とても神経を使いますよね。
そんな時、地図だけでなく「何駅の何番出口を出て、最初の信号を右折、その後、突き当たりのコンビニを左折」といった具合に、細かい説明文があると迷う事なく目的地に到着出来るので、とてもありがたいわけです。
では、旅行はどうでしょうか?
目的地にたどり着くまで特に時間の制限がなかったり、「散策」自体が楽しみ(目的)だとしたら、細かい道筋を決められているのはむしろうっとうしいと感じる人も多いと思います。
今回のテーマ「カリキュラム教育のメリット/デメリット」とは、まさにそんな話。
カリキュラムのメリットは?
「カリキュラム」を日本語にすると「教育課程」とでも訳せば良いのでしょうか。
前回(→Vol.1『目的と手段』)取り上げた「義務教育」だけでなく、高校、大学まで、カリキュラムは幅広く使われています。僕は以前、大手楽器店の音楽教室の講師を務めていましたが、そこでもカリキュラムのようなものがあり、それを元に研修を受け、指導をしていました。
では、カリキュラムにはどんなメリットがあるでしょうか?
- 全国どこでも不特定多数の人が均一的な教育を受ける事が出来る
- (学校の)先生も、(音楽教室の)講師も、教える内容が決まっているので、実習、研修さえ受ければ、とりあえず先生としての役目がつとまる
こんなところではないかと思います。
つまり、習う側にも、教える側にもそれなりのメリットがあるからこそ、多くの教育機関でカリキュラムが存在しているという事ですよね。
先ほどの地図の話で言えば、「細かい道筋を説明してくれている」のがカリキュラム教育のようなもので、一見誰にとってもありがたい、万能なものにも思えますが、はたしてそうでしょうか。
カリキュラムのデメリットは?
旅行の例えを出しましたが、旅行というのは目的地に早くたどり着く事だけではなく、景色や町並み、ショッピングなどを楽しむのも目的の一つです。
予定していなかった場所に行ってみたら、偶然とても綺麗な夕日を見る事が出来たり、ちょっと遠回りをして路地に入ってみたら、偶然オシャレなお店があって、美味しいものが食べられたり、掘り出しものが買えたりというハプニングがあるのも旅行の醍醐味ですよね。
さて、これを人生に置き換えた場合、誰かに教わった通りの道を歩くのか、目的に合わせて柔軟に通る道を変えるのか、どちらがより人生に近いと言えるでしょうか?人によっては前者だと言う人もいるかもしれませんが、
すべて教わった道順通りに人生が進む事なんてまずありません。
生き方によって個人差はあるものの、人は多かれ少なかれ自分で切り開いた(考えた)道を歩んでいく必要があります。
現場に向かう時でも、地図に書いてある道が事故や災害で通行止の場合もありますよね。そういう状況になった時、過去の経験を元に新たな迂回ルートを探したりします。仕事に遅れないためには危機管理としてトラブルを予測し、少し早めに家を出たりするでしょう。
人生においては、地図よりもはるかに複雑なプロセスで、自分の通る道を選択していかなければなりません。
参考:下記シリーズはまさにこの話です。
『A or B/あなたが選択すべき人生の分かれ道』Vol.1 実家に住む? or 一人暮らしをする?
その基礎となるのが義務教育だと言えるかもしれませんが、日本の教育はあまりにも「カリキュラム通り」、「教科書通り」だと感じざるを得ません。
「人生という道に迷わないように、自立出来るように」や「人生そのものをもっと楽しむ」という「目的」があり、時には「最短距離を通って目的地に着くため」の「手段」、時には「旅行を楽しむため」の「手段」というふうに、もっと柔軟になるべきなのに、「一学期間にここからここまで教科書を進めないといけないと文部科学省に言われているから」というような、教えている先生のほうが義務でやっているのでは?と思わせるような教育になってしまっている学校も多いと個人的には感じています。
本来は基礎をしっかり身に付けたうえで、経験を積み重ね、応用出来るように指導していくのが教育と言えるのではないでしょうか。
料理のレシピも、会社の運営や工場の生産マニュアルも、それ自体は必要不可欠だと思いますが、みんなが均一、同一なものしか作り出せなかったら、それはロボットと同じですよね。
次回は「日本と欧米の教育の違い」に触れてみようと思っていますが、欧米では「(先生も生徒も)共に、平等に学ぶ」という感覚が強いのに対して、日本は「(師匠と弟子のような)教える→教わる」の一方通行の感覚が強いため、良く言えば「いい子」ですが、均一で個性がなく、受け身で自分自身で考えられない子が育ってしまう気がします。
吹奏楽部を例にとっても、目的を共有せず、先生が一方的に指導をするだけで、取り憑かれたようにコンクールで金賞を取るためだけの演奏になり、ミスがなくて上手だけど、どの学校を聴いても個性がなくてつまらないとか、「先生、先輩の言った事は絶対に正しい」というような擦り込みが起き、いまでは決して正しいとは言えない奏法や練習方法が伝統として受け継がれ、それを頑なに守っている。
こんな話は僕だけが感じているわけではなく、指導に携わっているプロの間でもよく聞かれる話題です。
これからもっともっとグローバルになっていく社会で自分の道を切り開いていくためには、カリキュラムを生かしつつも、もっと柔軟な教育をしていく必要があるのではないでしょうか。
何より、(親を含む)他人に敷いてもらったレールの上を歩くより、自分で考えて選択した道を歩いたほうが、よりストレスがなく、楽しい、充実した人生を歩める事に、一人でも多くの方に気付いていただきたいと思います。
次回記事:NSU教育学部 Vol.3『日本と欧米の教育の違い』
前回記事:NSU教育学部 Vol.1『目的と手段』
今回からまた新たなシリーズが始まります。
タイトルは「NSU(Next Stage University)教育学部」にしてみました。
僕自身の最終学歴は高卒で、もちろん教員免許もありません。
ですが、教育というのは、いわゆる学校の先生と呼ばれる職業の人だけがやるものではないですよね。
この「音楽家のサバイバル術」では、音楽大学では教わらないと思われる自立のためのノウハウなど(人として、音楽家として最低限必要な事)を提案し続けています。これも教育と言えば教育だと思います。
初回にも書きましたが、先に生まれた人間が後進のために、(一つに決めた道ではなく)何らかの選択肢を提案するのが教育であり、先生という立場でなくても、大人の責任であり、義務に近い行動だと僕は考えています。
参考:『”ネクストステージ”へ羽ばたく若い音楽家の皆さんへ』
今まで書いてきた内容でも、ある意味僕なりの教育論のようなものは(そんな立派なものではありませんが)展開されているかもしれませんが、今回からしばらく、もう少し直に教育にスポットを当てて書いてみようと思います(なるべく音楽にも関連付けて書く予定です)。
義務教育という言葉の前に
まずはじめに、僕は「義務教育」という言葉が好きではありません。正直、好きだという人に会った事はないですけどね(笑)。
ほとんどみんな好きではないのに、なぜなくならないんでしょうか?(なぜ必要なんでしょうか?)
結局のところ、言葉のまんまですが、
義務だから、決まりだから、やらなきゃいけないから
と多くの人が考えているからですよね。
ちなみに僕は好きではないと書きましたが、否定をしているつもりはありません(義務という言葉はどうにかならないのか?と強く思いますが)。
日本国民のほとんど100%が税金で教育を受けられるのは、国が豊かである証拠です。海外には、子どもが満足に教育を受けられない国がたくさんあります。義務教育という制度が成り立つ事自体、素晴らしい国だと言えるのではないでしょうか。
せっかくこんな制度があるのに(タダで教育を受ける事が出来るのに)、多くの人が義務だから、決まりだから、やらなきゃいけないからと思って勉強をしているのは、なんだかとっても心が貧しい国だと感じてしまいます。
では、そもそも義務教育って何のためにあるんでしょうか?
僕が小中学生だったのは随分昔の話なので、すべて鮮明に覚えているわけではないのですが、この事をきちんと説明し、「ああ、だから勉強しないといけないんだな!」と思わせてくれた先生はいないんですよね……
ご多分に漏れず、「将来きっと役に立つ」と言われ、なんとなくその気になり、テストで良い点を取ると周りの大人が喜ぶ、ほめてもらえるとか、その程度で日々過ごしていたように思います。
「義務だから」の前に、「目的」を明確にするのが何よりも大切だと気付いたのは随分あとになってからですね。
音楽と出合い、どっぷりとハマり、練習、仕事、留学など、いろいろな経験をする中で「目的をもつ」大切さに気付き、今では自分の行動の基本となっていますが、日本の教育システムしか知らなかったら、はたまた音楽と出合っていなかったら、もっと受け身な人生を歩んでいたかもしれません。
日本は世界的に見ても、受け身な人が多い、自分の意見を人に伝えるのが苦手と言われていますよね。
これは、義務教育が悪いほうへ作用しているからだと思います。
教育の最大の目的とは?
昨年、このネクストステージ・プロジェクトを通じて、幼稚園の園長先生と、音楽科のある高校の元校長先生と対談をするという機会をいただきました。
このような経験は普通にミュージシャンをやっているとあり得ない事で、とても興味深かったです。
お二人の先生がおっしゃっていた共通のワードは「自立」でした。意外にシンプルなワードで、僕の中でもこれを聞いてスッキリしたのですが、こんなシンプルに腑に落ちる説明をしてくださった先生は、先ほども書いた通り、いなかったように思います。
もちろん、今こうして理解出来ているという事は、過去の義務教育がそれなりに機能していたからと言えるかもしれませんが。
ただ、こうして(音楽家を中心に)若い世代と関わっていると、いろいろなところで義務のみで働いている、勉強している人や、目的をもたずに「手段」で行動している人を見かけます。正直若い人だけではないです。
『”音大に行きたい”と”プロになりたい”は違う』
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ここに書いた話もその一例です。
身近な例でも、「信号無視をしてはいけない」と子どもを叱っている母親が、その理由を「決まりだから」とか「おまわりさんに怒られるから」と説明しているのを聞いた事があります。間違いではないかもしれませんが、正しくもないですよね。
一番大切なのは(目的は)、「危ないから(命の危険があるから)」という理由を伝える事です。
それを学習していくのが教育であり、子どもにとっての自立の第一歩です。日本では、
「○○をやってはいけない」「決まりだから」「○○さんに怒られるから」
知らず知らずのうちにこれらのワードを多用していたり、そう感じて行動している人が多い気がしませんか。
僕の考えでは、これは義務教育という制度が悪いからではありません。使い方の問題だと思います(「目的」を教えないからです)。
包丁だって正しい目的を理解し、正しい手段で使えばとても便利な道具ですが、誤れば殺人の凶器にもなり得ます。
「包丁を使ってはいけない」ではなく、正しい使い方を教えるのが教育です。
野球の世界では甲子園(高校野球)、音楽では吹奏楽コンクールなど、優勝や金賞が目的となってしまい、手段を誤っている学校をたくさん見ています。かと言って、練習時間だけを問題視し、単純に規制をかけるというのもおかしい気がします。
「目的」と「手段」。
この二つを理解する事は、それ自体が自立への近道であり、本来の教育のあり方だと言えるのではないでしょうか。
次回記事:NSU教育学部 Vol.2『カリキュラム教育のメリット/デメリット』
前回記事:ハリー・ポッターに学ぶ ”夢を実現した人”