ニュースNews

「好きこそものの上手なれ」好きならどんな苦労も乗り越えられる! | サックス奏者・福井健太さん

『輝く7人の音楽家たち』のシリーズもついに最終回となりました。
過去6人のインタビューも非常に興味深い内容ですので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

これまでのインタビュー記事

さて、今回はサックス奏者の福井健太さんです。

以前から共通の友人を通して名前は存じあげていたのですが、昨年からヤマハアーティストで結成されたZ EXPRESS BIG BANDで定期的に共演させていただいています(2017年10月29日の吹奏楽イベントでは、福井さんを含め、このバンドのメンバー4人に協力していただきました)。

クラシックもジャズも“話せる”福井さんはこのイベントには適任者でしたが、忙しい方なので断られるだろうと思いつつ、ダメ元で連絡してみたところ、奇跡的にスケジュールが合い、参加していただく事が出来ました。

比較的暇でも、ピンポイントでNGな場合もあるし、もの凄く忙しいのに、うまくハマる事もあります。後者のような時にご一緒出来る人とは「縁」を感じますね。長くフリーランスをやっていると、こういう経験が多々あります。

「運」や「縁」というのは明確な根拠があるわけではないですが、人生の中では大切にしておくべき要素だと僕は考えています。

Vol.7 「好きこそものの上手なれ」好きならどんな苦労も乗り越えられる!

福井健太さん・サックス(東京藝術大学卒業/フリーランス)

プロを目指して直接弟子入り志願!

―― 今回のイベントでの演奏はいかがでしたか?

 楽しかったですね! 僕にも幼稚園年長の息子がいるんですが、こんなふうに大勢の子供たちに生演奏に触れさせるなんて、贅沢でうらやましいなと感じました。うちの子たちにも聴かせてあげたいですよ。自分が楽しめただけでなく、企画として素晴らしかったと思います。

―― ところで、福井さんが楽器を始めたきっかけは何だったんですか?

 両親が音楽好きで、静岡の実家にはピアノやエレクトーンがありました。父はヤマハで工業用ロボットの設計に携わっていたものの、ビートルズが好きでギターを弾いたりする人でした。

 僕はピアノを習っていたんですが、オーディオ好きな小学校の担任の先生がジャズやビッグバンドの録音を聴かせてくれて、その影響で、まずは金管楽器をいじるようになったんです。

 実際に触れてみてトランペットは難しいと感じたけど、サックスは音が出やすくて楽しかった。そこで、人生が狂ってしまったんです(笑)。

 それで、中学生になってすぐに吹奏楽部に入ってサックスを始めました。その最初の1年が楽しくて楽しくて。両親には、楽器を始めて1ヶ月くらいで、「自分はこれでやっていきたい」「プロになりたい」と言ってました。3ヶ月ほど毎日そう言い続け、やっと中1の8月くらいに楽器を買ってもらいました。

―― そのままサックスを続けてプロを目指す事になったんですね?

 中3の時、(後の師匠の)須川展也先生の実家が静岡だと知り、浜松でクリニックがあった時に訪ねて行って、弟子にしてほしいと直談判しました。その時、師匠に言われたのが、「プロになるのは氷山の一角。ちゃんと演奏家としてやっていけるプロは氷山の一点だ」という言葉です。それに、「君はこのままアマチュアでやればスターになれるよ」とも言われました。選択肢を与えてくれたんですね。そう言ってもらえたのは、本当にありがたかったです。僕は、氷山の一点を目指す決心をしました。

 高校進学を考える時期になって、浜松唯一の音高に行きたいと父親に告げると、猛反対。大喧嘩になりました。その時まで、僕が本気でプロになろうとしているなんて思っていなかったようです。結局、両親とは進学校を目指すと約束する事になりました。

 その後は、昼は楽器の練習で、夜は塾と家庭教師の掛け持ちで猛勉強という生活です。中3の冬まで吹奏楽コンクールに出ていましたが、なんとか志望校に合格しました。

 須川先生の出身校でもある藝大に照準を絞りました。須川先生のもとへ東京までレッスンに通い、やめていたピアノを再開したり、楽典やソルフェージュも、もう一度勉強し直しました。そんな僕を見て、今度は親も藝大に受かるのであればやればいいと言ってくれるようになりましたね。

 でも、入試では最終の視唱がダメで…。“また来年!”という結果でしたが、人より1年間余分に勉強出来るという想いで浪人しました。その間、自動車免許をとり、上京資金を作るために楽器屋でアルバイト。店番の合間に楽器を練習し、仕事の後はお店の空いた部屋で練習させてもらいました。秋に上京がかない、勉強やアルバイトをしながら2度目の受験で藝大に合格しました。

カリキュラムに縛られない学生生活

―― 藝大ではどんな学生生活を送っていましたか?

 いろいろな人がいて、とても刺激的でしたね。先生たちもそうそうたる顔ぶれですし。ただ、プロになるという意志は全くブレていなかったのですが、どうやったら食っていけるのかなという想いはいつも頭にありましたね。

 在学中は、鶯谷の「新世紀」というダンスホールで、30分のステージを6ステージこなして一晩数千円というバイトをやっていました。大学でタキシードに着替えてダンスホールへという生活です。

 そのころは先輩方に頼って、アドバイスをもらったり、仕事を世話してもらったりしましたね。

 「バリトンサックスを持っていると仕事が広がるよ」「安くていいから車を買っておけ」「パソコンの打ち込みソフトは使えたほうがいい」とか、いろいろ助言を受けて。実際に打ち込みのアルバイトでカラオケの伴奏を作ったりもしました。

 東京佼成ウインドオーケストラをはじめ、今日はN響、明日は新日本フィルと、在京オケのほとんどにエキストラで行きましたね。

“バイリンガル”な音楽活動

―― 卒業後はどんな活動をされたんですか?

 在学中からの流れでと言っていいのですが、僕は、もともとサックスで“バイリンガル“を目指していて、この楽器で話せる事はすべて話そうと思ってやってきました。

 ですから、吹奏楽やオケのエキストラのほか、ロックバンドのサポートをやったり、CDやTVなどのさまざまな録音にも参加したりと、マルチな活動をしました。よく「サックス界のウィントン・マルサリスになりたい」とか言ってましたね。

 僕より楽器がうまくても、器用貧乏になりたくないのでクラシック以外はやらないというような人もいると思います。でも僕は、器用貧乏でいいから好きな事をやりたい。いろいろな事をやることが楽しいですから。自分の好きな事、楽しい事をやっていく事が、自信にもつながるのかもしれませんね。

―― ご結婚されてからは何か変化がありましたか?

 10年ほど前に結婚した時は、収入は不安定でも家内もヴァイオリン奏者として理解があったので、大きな変化はなかったですね。意識が変わったとすれば、息子が生まれてからでしょうか。息子には「父ちゃんはこういう仕事をしている」と知ってほしいし、「ウチの父ちゃんはサックスを吹いているんだ!」と誇りをもって言ってほしいです。

 より責任をもって仕事をするようになりました。息子がいいと言ってくれなければ、誰もいい演奏家だと言ってくれないと思いますから。

―― プロを目指している、あるいはプロとして歩み始めている後輩たちに一言いただけますか?

 自信をもてる事をちゃんとやっていく事が大事です。その時、自信過剰でも自信過小でもいけない。

 特にフリーランスでやっていくには、売り込む事が出来なければダメで、自分に何が出来るのかをわかってもらう努力が必要です。そのためには、自分はこんな事が出来るプロであると、(音や言葉で)はっきりと伝えなければいけない。

 僕が信じてきた言葉に「好きこそものの上手なれ」というのがあるんですが、どんなに苦しくても、好きであれば乗り越えられると思っています。

―― 福井さん自身の今後の活動についてお聞かせください。

 4年前に株式会社オンザビートという音楽制作会社を作ったんです。若い人たちがCDを低価格で作れるシステムにして、出版業も出来るようにしてあります。「制作費だけもらうけど、自信あるものを演奏して全部売り切ってごらん」と言って。売り切れるだけの物を作る自信をつけてほしいんです。ジャンルやスタイルには全くこだわらず、これからも、CDを出していくつもりです。

 ほかに、BRASS EXCEED TOKYOという一般社団法人の吹奏楽団も主宰しています。そこでは年に2〜3回の定期演奏会を行なって、1,000人のお客様を前に、他ではやらないような演奏をしています。ウェブでも展開していて、YouTubeにあげた演奏では、現在200万回近く再生されているものもありますよ。

 今後は、やはり、プロデュースの仕事を今以上にやっていきたいです。必要なところに必要な音楽を発信できるように。忙しいですが、新しい事に出会える楽しみがある活動を続けたいですね。

福井健太

 静岡県浜松市に生まれ育つ。幼い頃から様々な音楽や楽器に触れ、中学時代にサックスに出会う。
 中学時代のライブ出演をきっかけに活動を開始し、B to E (バロックから演歌まで)をモットーにあらゆるシーンで活躍する演奏家としてリサイタル、コンサートやライブを国内外で展開中。スタジオワーク(録音)も多くTVドラマ、アニメーション、映画、TVCM、ラジオ、CD、DVDでの演奏は自分では把握できない本数に達している。様々な著名アーティストとのステージの他、指導者としての評価も高い。音楽制作にも携わり、音楽プロデューサーとして様々なアーティストのコンサートやCD作品、作編曲を手がけ「必要な音や音楽を必要なところへ」と意欲的に活動している。自身のレーベルよりCD TrioYaS-375「銀河鉄道の夜」山川寛子「Classical Melodies」サクソフォンカルテット 桜「桜のうた」、Quartet MADE IN FUKUSHIMAファーストアルバムなどを制作しリリース。ゲーム、アニメ「ガールフレンド(仮)」 楽曲提供(春宮つぐみCV高垣彩陽「全力!ヒロイン」作詞作曲) 最近の著書として「サックスをはじめよう」(DVD付き教則本、ヤマハミュージックメディア)「本当に役立つ!サックス練習法74」(リットーミュージック)が好評発売中。吹奏楽団 BRASS EXCEED TOKYOコンサートマスター。サクソフォンを須川展也に師事。東京芸術大学卒。

7人の奏者たちのインタビューはいかがでしたか?

この厳しい音楽業界において、7人全員が成功者だと言って良いと思いますが、”7人7色”の生き方があるということは感じ取っていただけたかと思います。

とはいえ、明日仕事がなくなるかも知れないという危機感も持ち合わせ、日々気が抜けないのも我々芸能関係の生き方でもあります。

時には真逆の考え方をされている場合もありましたね。

ある人は、自分から積極的にチャンスを作り出すし、ある人は、自然の流れにうまく乗っかり、来た仕事を忠実にこなしています。

ある人は自分の相場を下げないために、ギャラの交渉をするけど、ある人は提示された金額でそつなくこなしていきます。

またある人は、いろいろなジャンルに興味をもち、視野を広げていき、ある人は一つのことを追求しています。

果たして、どれが正解なんでしょうか?

『このブログに”正解”は書いていません!』

最初の頃にも書きましたが、正解かどうかを判断するのは「あなた自身」です!

この7人が通ってきた道は、彼ら彼女ら自身にとっては正解であっても、それをそのまま真似をして、あなたが成功する保証はありません。

「創造は模倣から」という言葉がありますが、特に若い人にとって、人生に迷った時、先人の歩んできた道はとても参考になります。楽器やメインにしているジャンル、ご自身の性格などによって選択肢は変わると思いますが、まずは真似をしてみるというのは悪い手段ではありません。

大切なことは、そこから自分流にアレンジする柔軟性です。

それが出来る人は、他人の人生ではなく、「自分の人生」を生きられるのではないでしょうか?後者の方が、有意義でストレスのない人生を歩めると僕は信じています。

音楽という素敵なツールに出会い、人生の一部を音楽に捧げた皆さんが、一人でも多く「自分の人生」を歩むことができたら、それを生業(なりわい)にしている我々先輩音楽家にとって、何よりの幸せといえるかもわかりません。

NPO法人ネクストステージ・プロジェクトは、皆さんの”Music Life”を応援しています!

次回記事:『フリーランスで成功するための“10の秘訣”』 Vol.1 謙虚さ、感謝がある、謝罪が出来る
前回記事:Vol.6 ホルンはいい音だということを一人でも多くの人に伝えたい! / 中澤幸宏さん(ホルン)

『輝く7人の音楽家たち』も、残すところあと2回となりました。

今回はホルン奏者の中澤幸宏さんです。Vol.2の太田さん同様、Vol.1の佐藤君の紹介でネクストステージ・ウインドオーケストラに参加していただきました。

僕はジャズやポップスの仕事が多いので、クラリネットやホルンなどの奏者と知り合う機会が少ないのですが、このような大きいイベントを通して、良い奏者から、また良い奏者を紹介され、その世界が広がっていくのもフリーランスの魅力と言えるかもわかりませんね。

インタビューを読んでもわかると思いますが、中澤さんもまたストイックで、音楽に対し真摯に向き合っている素晴らしい奏者でした。

Vol.6 ホルンはいい音だという事を一人でも多くの人に伝えたい!

中澤幸宏さん・ホルン(尚美学園短期大学卒業・バンクーバー音楽院アーティスト・ディプロマ修了/フリーランス)

やるならトコトン。ホルンでどこまで出来るか?

―― 中澤さんのホルンとの出合いについて聞かせてください。

 小学校の音楽鑑賞の授業で、先生がホルンのレコードを聴かせてくれたんです。その時から虜になり、小4の2学期にブラスバンド部に入部、中学校でもそのまま続けました。

 高校では楽器をやめてラグビーをやろうかなと考えていたんですが、入学すると、廊下に応援団の吹奏楽部の先輩が並んで待ち構えていて、ラグビー部には入れなかったんですよ(笑)。

 やるならトコトンという性格なので、高校からは本格的にレッスンに通い、尚美学園短期大学に進学しました。

―― 中澤さんは早くからプロを目指していたんですか?

 実は、学校の先生になろうと思っていたんです。でも、僕はホルンがうまくて入学出来たわけではなかったので、どうせなら、自分がどこまで出来るか試してみようと考えるようになりました。プロになれる可能性のバロメーターにするために、実技試験で一番になって卒業するという目標を立て、結果、それを実現しました。

 そんなふうに頑張っている時、あるホルン奏者の来日コンサートに行ったんです。もの凄く感動して、コンサートの後、彼の楽屋に行ってその想いを伝えると、「カナダに来ないか」と言ってくださり、それで留学を決心しました。これが恩師のマーティン・ハックルマンとの出会いです。

カナダ留学で学んだ事

―― それでバンクーバー音楽院に留学されたんですね? その間にどんなことを学びましたか?

 バンクーバーでは徹底的に基礎的なトレーニングを叩き込まれるんですが、それが良かったですね。演奏法のトラブルがあると、その原因をきちんと探るんです。そして、「君がミスをしたのは、こういう練習をしていないからだ」という事をしっかり教えてくれる。それが重要なんです。自分の調子が悪くなった時の改善方法がわかるようになりましたね。

 日本人の悪い癖で、外国人は皆、楽器がうまいと思っています。外国人コンプレックスというやつですね。うまいだけなら日本人にもたくさんいるんですが、欧米で大切にされている感覚はそこではないんです。

 細かいミスを気にするのは日本人に多いかもしれません。ミスにこだわるというのは、真剣に向き合っている証拠ではあるけど、音楽の良し悪しはそこではないのではないでしょうか。「ミスをしないように」という音楽はとてもネガティブですが、欧米ではもっとポジティブに「良い音楽、サウンド」を追求している気がしますね。

一生続けていくには強い想いが必要!

―― 帰国してからはいかがでしたか?

 バンクーバーでも仕事はしていましたが、だからと言って、帰国して日本で仕事がある保証はありませんでした。ただ、実力さえあれば、必ず誰かに認めてもらえるチャンスがあると信じていました。それをつかむのは自分自身でしかないので、練習だけは絶対にさぼらないようにしていましたね。たまたまスタジオミュージシャンの方と知り合って、録音の仕事をいただけるようになりました。それと、ミュージカルの仕事ですね。

 今は、ミュージカルとオーケストラが半々くらいです。在京のオーケストラのエキストラに行ったのは34歳くらいの時かな。

 一応普通に生活は出来ていますが、一生続けていくとなるとそれなりに強い想いが必要だと思います。僕の場合は、たとえ帰国してすぐに仕事がこなくても、楽器をやめなかったでしょうね。それだけホルンに魅せられているし、ゼロからはい上がってきた自負もあります。

 演奏活動を続ける中で、今まで吹けていた事が急に吹けなくなる人も多いんですよね。それを乗り越える芯の強さは必要なんじゃないかと、若い人たちを見ていて感じる事もあります。

―― 中澤さんは、ビッグバンドでも演奏されていますね?

 5~6年前から呼んでいただいているんですが、当初は、ジャズマンに対する嫉妬が強かったですね。「どうやってアドリブ(即興演奏)を勉強したんですか?」と聞くと、「テキトー」なんていう答が返ってくる(笑)。カルチャーショックでした。

 とにかく、ボキャブラリーの多さには感服しますよ。自分がこれまで、いかにジャンルにとらわれていたかを思い知らされました。いろいろな事を体感するのは大事ですね。

 もともと、なんでもやりたがり屋なので、ジャズなど、ほかのジャンルにも積極的に挑戦していこうと思っています。来年は今年以上に、その次の年はまたそれ以上に。現状維持が一番つまらないですから。

目先の仕事より信用が大切!

―― 仕事に対するポリシーはありますか?

 どんな仕事でも断らずに、いい演奏をすること。その中にもチャンスがあるし、目先のことで断るより、信用のほうが大切です。

 たとえば、ある仕事を依頼されたとします。それを受けた次の日に、ミュージカルのような、長く続く条件の良い仕事が舞い込んだらどちらを取るか。「オイシイ」仕事を取るのも大事ですが、それは運ですから、先にきた仕事を選ばなければ先方にも申し訳ない。そうした経験は誰でも必ずあるでしょう。目先の事だけ考えずに、前者の仕事を選ばないと、信用がなくなる事もあります。

 2000年に、ドイツのポンマースフェルデン音楽祭の首席奏者として呼ばれた時の事です。いろいろな金管アンサンブルなどのレッスンを受けていました。そして、あるドイツ人から、「フランクフルト放送交響楽団のエキストラにお前を紹介する」という話がきたのですが、その日はこの音楽祭のコンサートの本番。僕は迷わず断りました。「日本人は、なぜチャンスを得る事に躊躇するのか」と驚かれましたね。でも、そこでエキストラを引き受けていたらもっと成功したかというと、それはわかりません。

 僕自身は、音楽祭で1ヶ月間に12回のコンサートがあって、リハ、本番を通じてヨーロッパの人たちの文化もよくわかったし、音楽祭は好評で、とてもいい経験をしたと思っています。

勝負は卒業してから

―― 後輩や、プロを目指す学生たちに伝えたいメッセージはありますか?

 音大生であれば、その4年間でどれだけ練習するかが一番大事です。それと、勝負は卒業してからだという事。在学中にオーケストラに入る人もいますが、その才能は天性のもので、うらやましがっていても仕方ない。卒業してからが勝負なんです。卒業したら、師匠から離れ、自分で練習環境を整え、練習方法を考えなければならない。悩みは尽きないでしょうが、ダメかもしれないなんて考えていたら前に進めません。悩むのは生きている証拠、その先に未来があるんです。とにかく、練習を絶対にさぼらない。これが一番大事です。

―― プロの演奏家として充実を感じるのはどんな時ですか? これからの目標などがあれば教えてください。

 まず、お客さんが「良かった」と言ってくれるのが一番嬉しいです。プロの演奏家として充実を感じるのは、ホルンがフィーチャーされて、それを自分がうまく演奏できた時ですね。ホルンは音に魅力があるんです。

 ホルンじゃなかったら、今の僕はいない。ホルンは難しいけれど面白い。楽器の中でも中毒性の強いものではないでしょうか(笑)。とにかく音なんです。「うまいけど音が良くない」と言われるとショックですよ。

 ホルンは、どうやっていい音を出すかが8割だと思っているんです。オーケストラでもシーンとした時に、ポンといい音を出せるか。そのつど恐怖を感じますが(笑)、それが出来る人は間違いなくうまい人。ホルンはいい音だという事を一人でも多くの人に伝えるのが、僕の人生のテーマだと言って過言ではありません。

中澤幸宏

 尚美学およびバンクーバー音楽院アーティスト・ディプロマ修了。
 ホルンを宮田四郎、南浩之、澤敦、M.ハックルマンの各氏に師事。室内楽をR.コール、R.シュトゥワートの各氏に師事。
 1999年ニューヨーク州チャタクァ音楽祭に奨学金を得て参加。2001年ドイツ・ポンマースフェルデン音楽祭に首席奏者として参加し好評を得る。現在はスタジオワーク、ミュージカル、オーケストラ、ビッグバンドなどで活動。

今回僕は、音楽ディレクターという立場上、指揮をする事になったのですが、ふだんは指揮者のいないジャズ、ポップスの現場が多く、ましてや自分が振る事はないので、かなり緊張していたのですが、リハーサルの後に飲みに行った際、「自信をもって振ってくれれば付いていくから!」と励ましてくれました。

インタビュー記事の中にもあるように、僕がジャズミュージシャンである事にも興味を持ってくれて、「アドリブってどうやるの?」といった質問も積極的にされていて、好奇心、向上心が強い人だと感じました。

このような意識の高い奏者と接するのは本当に良い刺激になります。現状維持がつまらないというのは僕も同感ですね。僕の印象ですが、現状維持で良いと思っている人は、そのレベルすら保てていない気がします。一流の奏者は常に上を目指しているのではないでしょうか。

次回はいよいよシリーズの最終回です。

次回記事:Vol.7 「好きこそものの上手なれ」好きならどんな苦労も乗り越えられる! / 福井健太さん(サックス)
前回記事:Vol.5 音楽家として自立するには「信念・情熱・感謝」が大切! / 黒田慎一郎さん(ドラム)

7回シリーズでお送りしている特集『輝く7人の音楽家たち』も、後半戦に差し掛かってきました。毎回興味深い内容で、僕自身も刺激を受けています)。

5回目となる今回は、ドラマーの黒田慎一郎さんです。

黒田さんとは、お互いテーマパークのショーに出演しているころに知り合い、アメリカ留学も同じ時期に経験しました。現在は僕のバンドのファーストコールでもあり、CDのレコーディングにも参加してもらっている、最も信頼出来るドラマーの一人です。

そんな黒田さんは、どんな人生を歩んできたのでしょうか。

Vol.5 音楽家として自立するには「信念・情熱・感謝」が大切!

黒田慎一郎さん・ドラム(アメリカ・ユタ州スノーカレッジ留学/フリーランス)

専門職の父にあこがれて…

―― 今日のネクストステージ・ウインドオーケストラのリハーサルをやってみていかがでしたか?

 ふだんはジャズコンボで管楽器1〜2人とピアノ、ベース、ドラムという編成だったり、テーマパークでも、打楽器はスネアとバスドラムだけなので、マリンバやティンパニが入る大編成はとても刺激的です。僕はテーマパークのショーに19歳のころから出演しているので、小さなお子さんの前で演奏するのは得意なんですよ。園児や保護者の方々に、良いサウンドを届けられたらいいなと思っています。

―― ドラムを始めたのはいつですか?

 高校1年生からです。小学校から吹奏楽でトランペットをやっていたのですが、高校の吹奏楽部で部室にあったドラムセットを叩いていたら、そっちのほうが面白かったんですよね。「トランペットは口がすぐ疲れるな、向いてないのかな」と思うようになり、ドラムに気持ちが傾いていきました。

―― プロになろうと思ったのは高3だそうですが、きっかけは何だったんでしょうか?

 父はもう引退しましたが、日本に3台しかない大型クレーンの運転手だったんです。そういう専門職に小さいころからあこがれていて、自分の「手に職」で仕事が出来たらといいなと子ども心に思っていました。今から思えば、そのあこがれが自分の好きだった音楽、ドラムと結びついたのかもしれません。

 高校は進学校で、もちろん受験勉強はやっていました。でも実は勉強が嫌で(笑)。夏休みは一応、図書館で勉強して、それから家に帰ってドラムの練習で勉強のストレスを発散するというような生活でした。そんな中で「やっぱりドラムでプロになりたい!」と思うようになったんです。

 進学校だけに、ほとんどみんな有名大学を希望していましたが、僕は音楽の専門学校を希望しました。

専門学校からプロの道へ

―― 専門学校はどんな感じでしたか?

 その学校では、僕の師匠の坂田稔先生(老舗のビッグバンド「宮間利之&ニューハード」のレギュラードラマー)も長く教えていたし、月謝もそれほど高額ではなかったんです。ほかにこの学校が良かったのは、空いている部屋を練習用に貸してくれたことですね。学院長に手紙で直談判し、許可をもらいました。今から思えば、よく理解してくださったと思います。1年間通い、あとは自分でやっていこうと考え、退学する事にしました。

―― 専門学校を辞めてからはどんな活動をされたんでしょうか?

 初めてのジャズライブが19歳か20歳くらいだったと思います。その後、テーマパークでのレギュラーの仕事もあったので、これまでの音楽活動は順調なほうではないでしょうか。でも、そのテーマパークの仕事に今年の3月で区切りを付けようと思っているので、この先はどうなるかわかりません。完全なフリーランスになれば、スケジュール的には自由が利くので、仕事が増える可能性はありますが、その逆もあり得ます。

 フリーランスは何より人のつながりが大切なので、今はきた仕事をなるべく受けるようにしています。テーマパークの出演などとの両立は大変ですが、辞めた後の事を考えると、今が踏ん張りどきですね。

アメリカ留学で学んだこと

―― 黒田さんのアメリカ留学経験について教えていただけますか。

 2004年に、テーマパークのショーに一緒に出演していたアメリカ人のトランペット奏者が、帰国後ユタ州の短大(コミュニティーカレッジ)でジャズ科のミュージックディレクターになったんです。楽屋で僕が「アメリカで勉強したい」と言っていたのを覚えていてくれて、「学校から奨学金を出すから来ないか?」と声をかけてくれました。

 日本で言うところの学費免除の特待生のようなものです。まだ実績のない学校だったので、レベルを上げて宣伝にするために、ある程度叩ける人を呼ぼうとしていたようです。

 学校の授業の話ではないんですけど、在学中にコミュニティーカレッジ・ビッグバンドの全米選抜のメンバーになって、ニューヨークで演奏させてもらったのはとても貴重な経験でしたね。

 ちなみに、奨学金を学費の全額受け取っていても、当然生活費や食費は自腹です。1年で100万円くらいは必要でした。ジャズのレベルが高い4年制の大学に進みたかったんですが、お金を貯めないと通えないので、いったん帰国したんです。

 でも、英語も上達して友達も増えたし、本当に楽しかった。出来ればもう1回行きたいですね。帰国後は、留学前と比べて、日本在住の外国人ミュージシャンから声がかかる機会も増えたので、本当に行って良かったと思っています。

―― 日本との違いはどうでしたか? カルチャーショックを感じた事は?

 ユタ州はモルモン教徒が多く、信仰心がとても深い土地柄なんです。学校生活でも、日本では許される範囲の生活習慣の乱れでも厳しく注意されました。日本とは違う価値観、宗教観の人にたくさん会い、自分の視野も広がったように思います。

「俺が俺が」ではなく、お客さんのために

―― いろいろな経験を積んだ今、プロの音楽家として最も大切にしていることは何ですか?

 音楽そのものや、すべての出会いに感謝する事です。お客さんが自分の演奏を聴いて喜んでくださった時は、この上ない喜びを感じますね。でも実は、そう思えるようになったのは最近なんです。それまでは、「俺が俺が」という感じでした(笑)。

―― 若いうちはそういう気持ちが必要な時期もありますよね?

 プロとしてやっていくためには、受け身でいるだけではダメですよね。特に若いうちは自分をアピールするのも大切ですが、それだけでは幸せではないんじゃないかと思うようになりました。何のために音楽をやっているのか?

 経験を重ねるにつれ、余裕をもって演奏出来るようになってきたら、自然と「もっとお客さんを意識しないと」という想いがわき上がってくるようになったんです。自分の事だけで精一杯だと、ほかの人の事までは気を配れないものです。

―― 音楽家として自立するためには何が大切だと思いますか?

 やりぬく「信念と情熱」ではないでしょうか。

 音大や専門学校に進学しても「絶対にプロになりたい」という人もいれば、「プロにならなくていい、普通に就職しよう」という人もいると思います。何が何でも音楽を続けていこうという人は、誰かに言われてやるんじゃなくて、自分の意思でやるんですよね。稼げるようになるまでに何年かかるかわかりませんが、やりたい人はやるんです。

 自分も生徒さんを教えていると、本人や親御さんから「プロになれますか?」と聞かれる事がよくあります。僕は「なろうと思う人はなりますよ」と答えます。先生によっては「いや、君は無理だ」とはっきり言う人もいますが、僕はそういうは言い方はしません。

 プロを目指して音大を目指す受験生や現役の音大生、若い音楽家の方は、周囲への感謝を忘れずに、自分を信じて頑張ってほしいですね。

黒田慎一郎

 97年、ドラムマガジンコンテストで優勝。95年~現在まで、東京ディズニーリゾートにてさまざまなショーに出演。05年~06年、奨学金を得てアメリカ・ユタ州スノーカレッジに留学。IAJE(International Association for Jazz Education)カレッジビッグバンドの全米選抜に選ばれ、ニューヨークにてMarcus Printup (Blue Note Artist)との共演や、Crescent Jazz Festivalへの出演も果たす。これまでに、Benny Green、Ben Wolf、Red Holloway、Scott Wilson、Tom Parmerterらの海外ジャズアーティストと共演。08年には、Blue Man Group in Japanに出演。現在Zildjian(ジルジャン)モニター。

今回インタビューさせてもらっている7人の中では、Vol.1の佐藤君が一番長い付き合いで(20年くらい)、黒田さんが二番目に長いんですが(15年以上)、やはりその間にも消えていった人はたくさんいるんですよね。

そんな中でも生き残っている人に共通しているのは、実力はもちろんなんですが、黒田さんがおっしゃっている「音楽そのものや、すべての出会いに感謝する事」と「信念と情熱」ではないかと思います。

「好きこそ物の上手なれ」ということわざがあるように、好きな音楽に信念をもって向き合い、情熱をもって演奏する事、それが人の心を動かす音楽につながるんだと思います

そして、そのパフォーマンスを通して出会うすべての人に感謝する事で、音楽家として生きる人生は、より有意義になるのかもわかりませんね。

次回記事:Vol.6 ホルンはいい音だという事を一人でも多くの人に伝えたい! / 中澤幸宏さん(ホルン)
前回記事:Vol.4 音楽をやっていくなら、出会い、そして人間関係を大切に / 塩浜玲子さん(マリンバ)

皆様、明けましておめでとうございます!

昨年の1月に、ネクストステージ・プロジェクトの音楽ディレクターに就任し、ちょうど1年が経過しました。

その間だけでも、普通に個人の音楽家として生活していたら関わらなかった方々とたくさん出会う事が出来(特に若い人たちと)、僕自身も価値観を広げ、成長する事が出来ました。

やはり、人生を豊かなものにするには、良い出会い、人間関係が不可欠だと感じます。

今回で4回目となる、昨年10/29の吹奏楽イベントに参加してくれた7人の輝く音楽家のインタビューは、マリンバ奏者の塩浜玲子さんです。

Vol.4 音楽をやっていくなら、出会い、そして人間関係を大切に

塩浜玲子さん・マリンバ(桐朋学園大学卒業・同大学研究科修了/フリーランス)

ごく自然な音楽との出合い

―― 今回のような吹奏楽での演奏はいかがでしたか?

 実は私、吹奏楽の経験があまりないんです。でも、この編成は打楽器をたくさん使うので、楽しいですね。若い子たちもみんな上手でした。

―― 塩浜さんがマリンバを始めたのはいつですか?

 6歳の時です。幼稚園のお遊戯会で卓上木琴を演奏して、先生に「上手!」と褒められたのがきっかけです。それで親に「この楽器をやりたい!」と言って始めました。自分からやりたいと言った事はあまり覚えていないんですけど(笑)。

―― 音楽の道を選んだきっかけはありましたか?

 母がピアノ教師をしていたので、マリンバを始める前からピアノは弾いていました。姉も一緒にマリンバを始めたんです。当然のように「音楽高校、音楽大学に行こうかな」と思っていましたね。

 特に意識する事なく、そのまま、ごく自然に音楽の道を進んで来ました。固い決意でというわけではなかったですね。

―― 常盤木学園高校の音楽科に進み、その後桐朋学園大学に入ったんですね。そして、そのままプロに? ご苦労などはありましたか?

 桐朋学園大学の打楽器科は、パーカッション専攻とマリンバ専攻に分かれていて、私はマリンバ専攻に進みました。

 私は教えるのがあまり得意ではないのもあるんですが、現在は演奏を中心に活動しています。

 大学時代から先輩方に声をかけていただいて、オーケストラのエキストラや打楽器アンサンブルなどの仕事をしていました。卒業してからちょうど20年くらいになりますが、いただく仕事をコツコツとこなしていくうちに、プロとして自立出来るようになっていったという感じです。

 いつも楽しくお仕事させてもらっていますので、苦労という実感はないですね(笑)。

―― ギャラの交渉はされるんでしょうか?

 「お任せします」という感じです。基本的には、スケジュールが空いていればお引き受けしていますね。

海外公演から学ぶ事

―― ところで、海外公演の多い塩浜さんですが、その際に大変な事はありますか?

 海外には、その年によって違いますが、平均1~2回は行っています。2018年は、南米とヨーロッパのツアーで、年間の3分の1は海外になる予定です。

 力を入れているのは、マリンバ1台でオーケストラの曲を2人で連弾するマリンバ・デュオ「ウィングス」で、主にこのユニットで海外公演をこなしています。

 先輩の吉岡孝悦さんと組んでずっと活動していて、2013年にはCD『マリンバ連弾によるオーケストラの名曲』を制作しました。師匠の安倍圭子先生のサポートもやっています。

 現地の奏者と共演する事もあるのですが、音楽家にとって楽譜、音符は言葉なので、言語の壁はあってもコミュニケーションに問題はありません。

 ただ、困るのは楽器ですね。マリンバは大型楽器のため、現地調達になるのですが、いつも状態の良い楽器があるとは限りません。良くない場合は、自分たちでメンテナンスから始めて調整しなければならないのが大変です。

―― マリンバは重いですよね?

 200kgくらいありますよ。分解出来るんですが、それでもパーツが10kgくらいあるので、運搬が大変です。階段で上層階まで運ばないといけない場合もあります。小さい楽器を演奏している人がうらやましいです(笑)。

 私は今、テニス肘や筋断裂、腱鞘炎を起こしていて、少し辛いです。職業病のようなものですね。

若い音楽家へのメッセージ

―― なるほど。音楽家もアスリートのような感じなんですね? ところで、今回の吹奏楽イベントでは、たくさんの若い音楽家と共演されたと思いますが、最後に、後進に対して何かアドバイスがあればお願いします。

 人間関係を大切にする事だと思います。

 私の場合、大学時代もその後も、先輩や友人、先生に恵まれていました。不得意な事は誰かが助けてくれたり、自分の企画ではなくても、周囲がお仕事に誘ってくださったおかげで今があります。

 社会人として最低限のマナーは必要だと思いますが、音楽の中では年齢も関係ないと思っています。

 私自身、今回のように、若い奏者から教えられる事や、刺激を受ける部分も多くて、実際とてもプラスになっていますし。音楽って、そういう関係を築ける事がすごく良いと思うんです。

 良い人間関係を作り、それを大切にしていく事で、プロとして成功してほしいと思いますね。

塩浜玲子

 マリンバ奏者。6歳よりマリンバを始める。常盤木学園高等学校音楽科卒業。桐朋学園大学音楽学部卒業、同大学研究科修了。マリンバを草刈とも子、星律子、安倍圭子、打楽器を、小林美隆、佐野恭一の各氏に師事。安倍圭子マリンバアンサンブルジャパン、吉岡孝悦パーカッションアンサンブル、マリンバアンサンブル・ドロップス、マリンバデュオ・ウィングスのメンバーとしてベルギー、ドイツ、スイス、アメリカ、コロンビア、グアテマラ、メキシコ、ブラジル、トルコ、タイ、台湾、韓国、プエルトリコ、エルサルバドル、ホンジュラス、コスタリカ、アルゼンチンを公演。また多数の打楽器アンサンブルに所属し学校公演を行う。マリンバ演奏のほか、オーケストラ、吹奏楽、スタジオ録音などで活動している。

塩浜さんのインタビューに同席させていただいて感じたのは、とても「自然体」で音楽に向き合っている事です。

ごく自然に楽器を始め、ごく自然に音大に進み、ごく自然にプロになり、あまり苦労を感じる事なく生活が出来ているというのはうらやましいですね。

前回の円能寺さんは、ギャラの相場が下がらないように、「値下げはなるべくしない」とおっしゃっていましたが、塩浜さんはある意味真逆です。「お任せします」で納得のいく金額がもらえているというのは、それだけ確かな技術や人間関係があり、周囲に評価されているからだと言えるかもわかりません。

自己評価も大切ですが、プロとして評価を受け、それに見合った対価(報酬)を受け取るためには、何より周囲からの評価が大切です。いくら自分は素晴らしいと思っていても、周囲が評価してお金を払ってくれなかったら、それはプロとは言えないでしょう。

技術だけでなく、良好な人間関係を築く事も重要ですね。世間で言う「ブラック企業」のような所は、まず間違いなくまともな人間関係が存在しません。そういう環境では、適切な評価も受けられないし、当然その対価も受け取れないのです。

フリーランスで音楽の仕事をやっていると、特に若いころはブラック企業のようなクライアントや事務所の仕事を経験する機会もあると思います。

自分の能力、今のポジションを過信せず、謙虚さをもちながらも価値を下げすぎない、このバランス感覚がある人が成功していると僕は常々感じていますね。

ネクストステージ・プロジェクトでは、このような音楽家が一人でも多く育つような環境づくりに努めていきたいと考えています。

それでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

次回記事:Vol.5 音楽家として自立するには「信念・情熱・感謝」が大切! / 黒田慎一郎さん(ドラム)
前回記事:Vol.3 演奏機会が少ない楽器だから、自分のポジションは自分で作る / 円能寺博行さん(ユーフォニアム)

10/29のイベントに、ネクストステージ・ウインドオーケストラのメンバーとして参加してくれた7人の輝く音楽家のインタビュー。今回で3回目となります。

Vol.1、Vol.2はこちら。
Vol.1 可能性が無限大の “ フリーランス ” という生き方 / 佐藤秀徳さん(トランペット)
Vol.2 音楽に没頭出来る環境で4年間やりきる、それが財産になる! / 太田友香さん(クラリネット)

今回はユーフォニアム奏者の円能寺博行さんです。
円能寺さんとは、僕が主宰している「Hero’s Brass」に参加してくれていた、共通の友人のトランペット奏者を通じて知り合いました。

その場所はなぜかビッグバンド(通常、管楽器はサックス、トランペット、トロンボーンしか使わないジャズの編成)。

僕もいろいろと珍しい事をやるのが好きな人間なので、そこにユーフォニアムの円能寺さんがいるのを特に不思議だとは思っていませんでしたが、今回のインタビューで、彼がいかに自分から動いて今のポジションを築いてきたか、理解が出来たような気がします。

Vol.3 演奏機会が少ない楽器だから、自分のポジションは自分で作る

円能寺博行さん・ユーフォニアム(東京藝術大学卒業/フリーランス)

吹奏楽、ユーフォニアムの魅力にハマった中学・高校時代

―― 円能寺さんがユーフォニアムを始めたのはいつですか?

 中学1年生です。どの部活に入ろうかと迷って、ちょっと遅れて吹奏楽部に入部したら、ユーフォニアムしか残っていなかったんですよね。でも、すぐにハマりました。

 小学校では楽譜も読めないし、歌も楽しくないしで、音楽の授業が嫌いだったんです。でも、吹奏楽はそれとは別世界。カッコ良かったですね。それに、周りが1週間くらい苦労してようやく音を出せたのに、僕は初日に出来ちゃったんです。「え?もう音出たの?」と驚かれて、これはいけるかもと思いました。

―― その後、どんな学生生活を送っていたんでしょうか?

 とにかく毎日、朝から晩までずっと部活の時間以外も楽器を吹いていました。中学2年生の頃には、バンドをバックにソロを吹かせてもらえるようになったんです。

 お客さんも「中学生でこんなに吹けるの?」って見に来てくださるようになって、市民バンドや一般バンドにゲストとして呼ばれていました。それで「プロとしてこういう仕事が出来たらいいな」と思うようになりました。

たくさんの仲間に出会った藝大での生活

―― 藝大に行こうと決めたのは?

 高校2年生くらいです。受験では副科ピアノに苦労しました。子供のころからやっていれば良かったと今でも思います。入学してからは、たくさん練習したのはもちろんですが、よく飲み、よく食べ、よく遊んだ、楽しい学生生活でした(笑)。

 大学1年生のころからグループを組んで活動していましたね。藝大では、音楽的にも技術的にもレベルの高い仲間とともに多くの経験が積めました。今、仕事に行くと必ず、藝大の先輩や後輩、同級生に会います。プロとして活動するうえでの人間関係のベースが藝大時代に出来たのかなと思います。

ユーフォニアムでプロとして生活するために

―― 卒業後、苦労した事はありますか?

 ユーフォニアムは演奏の現場がものすごく少ないんです。オーケストラにはない楽器だし、吹奏楽でも、日本では三大吹奏楽団と言われる東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラ、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラと、警察や消防、自衛隊の音楽隊などしかレギュラーの仕事はありません。

 僕はそれらに所属しているわけではありませんが、ユーフォニアム奏者以外の道を考えた事はなかったです。あまり苦労したという意識はないですね。

―― 苦労せずに続けてこられたのはなぜだと思いますか?

 演奏だけでなく、指導の仕事など、いろいろな事をがむしゃらにやってきましたから。ユーフォニアムはほかの楽器の人と同じ範囲で活動していたら、この先、右にも左にも、前にも後ろにも進めません。

 実は藝大にいる間は、上の代も下の代もユーフォニアムの学生はゼロだったんです。ちょっと寂しかったですが、だからこそ、「自分からどこかに入っていかないと」と考えていました。金管五重奏にもユーフォニアムはないので、これまで何曲もアレンジして、自分のポジションを自分で作りました。

 (このブログの執筆者である)藤井君が主宰している「Hero’s Brass」に「僕もメンバーに加えてほしい」と持ちかけたのも、そうした行動の表れだと思います。

 ユーフォニアムは知名度も使用頻度も低いんです。最近、『響け!ユーフォニアム』というアニメでようやく知られてきたくらい。そういう楽器ですから、自分から何かを作っていかないと。

業界の相場を下げてはいけない!

―― 指導の仕事などでは、ギャラ(報酬)の交渉は難しくないですか?

 すごく難しいです。学生のころは(経験、実績を積むために)「交通費だけいただければいいですよ」と言って教えていたんですが、卒業後は自分で金額を設定しました。「高いですね」と言われる事もたまにありますが、値下げはなるべくしないようにしていますね。

 その代わり、その金額で受けてくれる僕の弟子や後輩を紹介します。学校の先生は横のつながりが強いので、一度値下げすると、「あの先生はこの金額でやってくれた」とほかの先生に伝わり、相場が下がってしまうんです。

 僕より安い金額で指導する人に仕事を取られても、そこから戻って来る場合もあります。結局は質と、実績を残す事が大切なんですよね。

 たとえば、吹奏楽コンクールで「円能寺先生に習った子のソロが凄く良かったね」と評価されると、ふだんは安い先生に指導を受けていても、いざユーフォニアムのソロがある楽曲のレッスンとなると、こちらに声がかかります。

 また、弟子を藝大やほかの音大に合格させていますし、その子たちのその後の活躍も、僕の実績と言えるかもしれません。

―― そうやって仕事が増えていくんですね?

 自分で主催したリサイタルの時に、楽屋に来てくれた学生さんやお母さんから直接指導を依頼された事もありました。自分から行動を起こせば、絶対に何かにつながるんです。

 だからネガティブに考えないで、まずやりたい事を実現させてみるのが大切です。リサイタルをやりたいなら、開いてみる。もしもお客さんが入らなかったり、赤字になったら、次は集客やお金の事も考えるようになるでしょう。学ぶ事はたくさんあります。

 やりたい事をとにかくやり続ければ、それが種になる。いつ芽が出るかはわからないけど、いっぱい種を蒔いておくとひょんなところで実るんです。今、僕が音楽を続けていられるのは、それをやってきたから。特にフリーランスで続けている(生き残っている)人は、皆そうやって自分から行動を起こしていると思いますよ。

―― 最後に、音楽を生業とするうえで最も大切にしている事を教えてください。

 聴いてくださる方に感動を与えるために、日々研究と練習を積む事、そして「仲間」です。

 オーケストラでもアンサンブルでもソロでも、ユーフォニアムが使われている音楽はまだまだ少ない。だから仲間を大切にして、ユーフォニアムという楽器をもっと広めていきたいですね。

円能寺博行

 神奈川県出身。東京藝術大学卒業。2001年第18回日本管打楽器コンクールユーフォニアム部門第5位入賞。
 これまでに稲川榮一、露木薫、山本訓久の各氏に師事。
現在、東京アトラクティブ・ブラス、アンサンブルペガサス東京、Peer Tone Ensemble、TADウィンドシンフォニーの各メンバー。
 東海大学教養学部芸術学科、横浜市立戸塚高等学校音楽コースの各非常勤講師。
 また、ユーフォニアム&バストランペット奏者としてオーケストラ、吹奏楽、アンサンブルを中心とした演奏活動を行っているほか、吹奏楽指導者としても中学・高等学校をはじめとする多くの団体の指導に力を注いでいる。

今回の円能寺さんのインタビューのキーワードは、

  • 自分のポジションは自分から動いて作る
  • 仲間を大切にする
  • ギャラ(報酬)の相場をむやみに下げてはいけない

この3つだと感じました。

また、「生き残っている人は皆、当たり前にそれをやっている」という言葉も印象的でしたね。僕自身もそうだったと思います(今でもですが)。

自らリサイタルを開催する事で演奏レベルを上げるとともに、フリーランス(個人事業主)としてやっていくための経営ノウハウを自ら学んできたというのは素晴らしいですね!

円能寺さんが藝大時代に学内の仲間で組んでいた金管アンサンブルのメンバーは、今、ほとんどの方が、厳しいオーディションを通過して、オーケストラのポジションを得ています。オケに入るようなレベルの人たちでも、受け身ではなく(学校のカリキュラムどおりに言われた事をやっているだけでなく)、自ら動いて自分にプレッシャーをかけ、レベルを上げているんですよね。

やはりそのためには、「意識の高い仲間の存在」が必要だと言えるでしょう。藝大はその点で恵まれているかもしれませんが、個人的意見としては、ほかの音大や専門学校の人も、もっと学校の枠を超えて交流、切磋琢磨してほしいと思います(ネクストステージ・ウインドオーケストラも、そういった意図も踏まえ、いろいろな学校からメンバーを集めました)。

お金の事も、特に日本は口に出す事をタブー視される風潮がありますが、自分の価値をアピールし、その対価を受け取るというのは、プロとしてとても大切な事なんです。
とても有意義なインタビューとなりました。

円能寺さんとはこれからも何らかの形で共演させていただきたいと思います。ありがとうございました!

次回記事:Vol.4 音楽をやっていくなら、出会い、そして人間関係を大切に / 塩浜玲子さん(マリンバ)
前回記事:Vol.2 音楽に没頭出来る環境で4年間やりきる、それが財産になる! / 太田友香さん(クラリネット)

前回から、10/29のイベントにネクストステージ・ウインドオーケストラのメンバーとして参加してくれた7人をピックアップして紹介させていただいています。

1回目の佐藤秀徳君のインタビューはいかがでしたか?

学生さんも、既にフリーランスで頑張っている方も、参考になる事や励まされる内容が満載だったのではないでしょうか。

さて、今回のインタビューは東京佼成ウインドオーケストラのクラリネット奏者の太田友香さんです。

前回記事の佐藤君の紹介で、今回初めてご一緒させていただいたのですが、演奏も素晴らしく、また、若手奏者のまとめ役としても活躍してくださいました。

東京佼成ウインドオーケストラと言えば、吹奏楽をやっていたら一度は聴いた事がある吹奏楽団ですよね。僕自身も中学、高校の吹奏楽部時代からあこがれの楽団でした。

そんな日本屈指のプロの吹奏楽団のポジションを音大卒業と同時に射止めた太田さんは、いったいどんな学生時代を過ごし、今があるのでしょうか?

Vol.2 音楽に没頭出来る環境で4年間やりきる、それが財産になる!

太田友香さん・クラリネット(昭和音楽大学卒業/東京佼成ウインドオーケストラ所属)

―― 今日はネクストステージ・ウインドオーケストラのリハーサルでしたが、今回のような所属団体以外の方との共演はいかがですか?

 新鮮で楽しいです。声をかけていただき、嬉しい気持ちです。今まで一緒に演奏出来なかった方々との共演は、とても刺激になりますね。

練習に明け暮れていた学生時代

―― 太田さんがクラリネットを始めたのはいつからですか?

 中学生のころに吹奏楽部に入った事がきっかけです。部活が気持ちの大半といった感じの生活でしたね。

―― 音大に進もうと決めたのはいつごろですか? 入ってみていかがでしたか?

 部活のコーチにいらしていたプロの先生から強く勧められたのと、ソロのコンテストで上位入賞したの機に、高校2年生の冬から3年生の春にかけて音大受験を決めました。

 それまで特別なレッスンを受けておらず、実はスケールやエチュードの存在を知ったのもそのころで、部活も高校3年生の秋まであったので、急ピッチで受験に向けて仕上げていった感じでしたね。

 中学時代の恩師に無理を言って、学校の教室を夜遅くまで使わせてもらい、練習に明け暮れていました。

 大学では、とにかく音楽に没頭出来る環境が嬉しくて、ひたすらクラリネットを吹いていました。こんな実力では無理だろうと4年間常に思っていて、プロになれるというイメージはありませんでしたが、今思うと練習量は人一倍多かったかと思います。

 先生からは、「プロになりたかったら楽器を吹いていない時間を12時間以上作らないように」と言われていたので、それを守る事に必死になっていた部分もあります。

 先生に言われた課題をこなす事と、上手だった同級生にとにかく食らいついていく事をずっと考えて頑張っていたのですが、卒業試験の演奏を聴いたほかの楽器の先生から、いつかオーケストラに入れるよ、と声をかけてもらえたのは嬉しかったですね。

オーディションを経て、プロの道へ

―― それでオーディションを受けられたんですね?

 大学4年生の夏に、とあるオーケストラのオーディションを受けてみました。結果的には受からなかったのですが、そのころから徐々に、プロになろうという気持ちが固まってきたように思います。それで、自分の実力を試すつもりもあって、その冬に、自分の師匠のいた楽団のオーディションを受ける事にしました。幸い合格し、プロの道を歩む事になりました。

―― 現在所属している東京佼成ウインドオーケストラですね?

 ええ。恩師の先生方のおかげですが、その時に合格していなかったら、フリーランスとして活動出来ていたかは自信がありません。

 もちろん入団してからも大変でした。当然周りは一流プレイヤーなので、まず着いていくのですら必死でした。フリーランスの経験をせずに楽団に入ってしまった事から、苦労する事もたくさんありました。自分の演奏の方向性を見失ってしまい、それまで吹けた曲も伸び伸び吹けなくなってしまって…。

 現在、入団10年なのですが、周りを冷静に見られるようになってきたのは、4、5年経ってからでしょうか。最近では海外の同世代の演奏者と触れあう機会があり、プレイヤーとしての自覚も強くなってきました。

 良い指揮者、良い共演者、良いお客様の反応などが揃った時は、何事にも変えられない幸せな気持ちになりますね。

―― 東京佼成ウインドオーケストラ以外の活動はいかがですか?

 プレイヤーとして、自分の実力で楽団外での活動を広げていけるのか不安がありました。そのため、コンクールなどにチャレンジをして、より名前を知ってもらうようにとモチベーションを高めていました。

 20代のうちに協奏曲などをいろいろな所でたくさん演奏させてもらえたのは貴重な経験だったと思います。

―― ご苦労などはありますか?

 どうしても仕事が重なってしまい、引き受けたい仕事が受けられない時は悔しい思いをします。また、大変な本番が集中してしまうと、練習時間を確保する事にも苦労しますね。

音大講師の立場から思う事

―― 太田さんは音大でも教えていますね。プロを目指す若い人たちにアドバイスするとしたら?

 2015年度から、母校の昭和音大で非常勤講師をしています。自分の学生時代は、先生が50代で、しかも恐くて厳しい先生でした。私はまだ30代なので、そういう意味では学生との距離感について迷う時があります。ですので必要以上に厳しくするつもりはないのですが、学生自身の本気度という点では、物足りなさを感じる時が多々あります。音楽に没頭出来る環境で4年間やりきる、そういう心構えが必要だと思います。

 一生楽器を続けていく以上、練習は妥協する事なく、しっかりとしてほしいと思います。音楽と向きあう時間をつくる事が何よりも大切です。私の場合は、大学時代の4年間で練習量を確保出来たのが大きな財産となっています。師事していた先生が厳しかった事も、それが出来た理由の一つですが。あとは、出来る限り多く、コンサートで生の演奏に触れる事です。生で演奏を観たり聴いたりする事も、プロとしての財産になります。

この人と仕事をしたいと思われる音楽家になる!

―― 太田さんの今後の目標は?

 私は、この人と仕事をしたいと思われる音楽家になるために、聴きに来ている人の気持ちを考える事、周りの人から刺激を受け、それを自分の演奏に還元する事を常に心掛けています。

 先ほども触れましたが、最近、海外の演奏家との違いを感じる機会が個人的にありました。その差を少しでも縮められるように、演奏家としても、教育者としても、さらに経験を積んでいきたいと思っています。

太田友香

 昭和音楽大学卒業。大学卒業時に優等賞受賞。これまでにクラリネットを笠倉里夏、関口仁、堀川豊彦、野田祐介、室内楽を太田茂の各氏に師事。 第77回読売新人演奏会出演。 第3回クラリネットアンサンブルコンクールデュオ部門第1位受賞。 第78回日本音楽コンクールクラリネット部門第3位入賞。 第81回日本音楽コンクールクラリネット部門第3位入賞、岩谷賞(聴衆賞)受賞。 第8回日本クラリネットコンクール第3位入賞。 第30回日本管打楽器コンクールクラリネット部門第2位入賞。 2007年、大学卒業と同時に東京佼成ウインドオーケストラ入団。2015年6月12日に行われた東京佼成ウインドオーケストラの定期演奏会にてF.ティケリ作曲「クラリネット協奏曲」を演奏し、好評を博す。吹奏楽はもとより、オーケストラへの客演、ソロ・室内楽公演などでも幅広く活動。 現在、東京佼成ウインドオーケストラクラリネット奏者。昭和音楽大学非常勤講師。

僕も中学1年生の時、吹奏楽部でトロンボーンを始めたのですが、2年生のころには既にプロになりたいと思い、レッスンに通い始めました。太田さんの場合は高校2年生のころだそうで、決して早いという印象ではないですね。

音大でも、4年生ころまではそれほど強くプロになる事をイメージしていなかった点も、僕とは真逆かもしれません。

そんな状況で、一流のコンクールに入賞出来たり、卒業のタイミングでオーケストラのオーディションで結果を出せるというのは、僕のような雑草タイプにはない才能があるのだと思いますが、それに加え、良い先生に恵まれ、その方を信じ、ブレずに誰よりも練習、努力をした事が結果に繋がっているのだと感じました。

太田さんもおっしゃっていますが、卒業すると(プロになると)本当に練習時間の確保が大変になります。

学生さんのころは仕送りがあるけど、卒業したらアルバイトで生活費を稼がないといけなくなる人もいるでしょうし、僕の場合はレッスン、アレンジ、プロデュース、ライターなど、演奏以外にも時間を費やしているので、なかなか満足に練習が出来ません。

何が言いたいかと言うと、

本当にプロになりたいなら、学生という身分に感謝し、時間があるうちにとにかく練習しましょう!

という事です。

もちろん時間だけ費やせば良いというものではありませんが、太田さんのようにひたむきに頑張れば、夢の実現に一歩近付くかもしれませんね!

次回記事:Vol.3 演奏機会が少ない楽器だから、自分のポジションは自分で作る / 円能寺博行さん(ユーフォニアム)
前回記事:Vol.1 可能性が無限大の “フリーランス” という生き方 / 佐藤秀徳さん(トランペット)

先日、川崎市宮前区の学校法人持田学園「有馬白百合幼稚園」の創立50周年記念大運動会のオープニングセレモニーで、50人編成のウインドオーケストラによる生演奏を行いました(詳しくはこちら)。

当事務所は、若い音楽家への演奏機会などの提供を趣旨にしていますが、このイベントでは50人の中に数人、30代後半から40代前半の現場経験が豊富なプレイヤーを招待させていただきました。

彼らは、演奏や音楽との向き合い方を通して、共演した若手に多大な刺激を与えてくださり、心から感謝しています。

今回から7回にわたって、その招待演奏者のインタビューを掲載します。

彼らは、音大卒のクラシック奏者だけでなく、ジャズやポップスも含め、幅広いジャンルをこなすプレイヤーや、留学や海外公演を経験しているプレイヤーなど、多方面でプロとしての高い評価を受けています。

“仕事がくる” 音楽家はどんな学生時代を過ごしていたのか?

そして、プロ生活をどう歩んで来たのか?

僕自身、彼らのインタビューに立ち会わせていただきましたが、7人にはそれぞれユニークな生き方があり、とても興味深い内容でした。

僕はこの「音楽家のサバイバル術」を通して、自分の生き方を強要したいわけではありません。

僕以外の7人のインタビューをシェアする事で、皆さんがより視野を広げ「自分なりの生き方」を見付ける手助けになれば幸いです!

Vol.1 可能性が無限大の “ フリーランス ” という生き方

佐藤秀徳さん・トランペット(東京藝術大学卒業/フリーランス)

―― 佐藤さんがプロになろうと思ったのはいつですか?

 母がピアノ教師で、小さい時から音楽には親しんでいました。合唱もやっていましたし、何か音楽の仕事をやりたいとは思っていましたね。小学校低学年のころから鼓笛隊の金管楽器を見てあこがれていて、5年生の終わりの引き継ぎでトランペットを初めて手にしました。その時点で完全に心をつかまれてしまって。みんながブーっていう程度にしか音が出せないのに、僕は最初から音階が吹けたんです。

 (才能があるのかと)勘違いしますよね(笑)。すぐに地元のジュニアオケに入りました。テレビでオーケストラの放送があれば欠かさず観るようになり、N響アワーでやっていた「展覧会の絵」を観て、これしかない!、オーケストラに入りたい!、プロになりたい!と思ったんです。音大に行くと決めたまさにその瞬間ですね!

―― 小学生時代からプロを目指し、藝大に進み、現在さまざまなフィールドで活躍中ですね。プロの道を順調に歩んで来たと思いますが……

 まさか! たくさん挫折してますよ。まず、藝大の付属高校を目指したのですが、不合格。また、家庭の事情で私立は難しいので、国立の大学しか選択肢がなく、1年浪人してようやく受かりました。しかし入ったら入ったで、とにかくハイレベルだったんです。未知の世界でしたね。着いて行くのに必死という4年間でした。

自分の出している音でお金をもらうという経験は、早いうちからするべき

―― 大学時代に得た経験で最も大きかった事は?

 藝大では、同期だけでなく、先輩も後輩も本当にうまくて。とにかく常に刺激があって、とてもいい環境でした。1年生の終わりころから、週末などに定期的に結婚式での演奏の仕事をいただくようになり、藝大以外の人と接する事が出来たのも大きかった。フリーランスの方もいらっしゃいました。この時期に出会ったご縁は卒業後も続いていて、今でもいろいろなお仕事をいただく機会がありますね。自分の出している音でお金をもらうという経験は、早いうちからするべきだと思います。その点で僕はラッキーでした。また、この事が「(自分も)プロでやれる」という自信につながるのだと思います。

自分の可能性を一つに絞ってしまうのはもったいない!

―― 卒業後、苦労した事はありますか?

 僕はずっとフリーランスですし、その時本当にやりたいと思う事をやってきたので、苦労したと思う事はあまりないんですよね。

 その時やるべき事、やりたい事のすべてに挑戦するのは、とてもメリットがあると考えています。一つの目標を目指してそれだけをコツコツやっていく事はとても素晴らしいのですが「これは自分の範囲外」として、いろいろ省いてしまう、あきらめてしまうのはもったいないかなと。いろいろやりましたよ。人と違う事をやるのは嬉しかったし、そこに魅力を感じていましたね。

―― その中でも特にユニークな経験は何ですか?

 「チャンチキトルネエド」のメンバーだった事は、僕にとってとても大きかったですね。これは、藝大の作曲科だった友人の本田祐也が作ったグループで、メンバーはクラシックメインの人もいればジャズの人もいました。

 クラシックともジャズとも呼べない音楽、しかし何とも言えない凄まじいインパクトがある。今もほかのフィールドの人との交流が出来ているのはそのおかげもありますね。このグループの活動は、僕の考え方も変えてくれました。(クラシックのように)決まりきった事がすべてではないという事を知りましたね。

―― プロになってからの転機があれば教えてください。

 そうですね。実は上京する前に、30歳になってもオケに入っていなかったら音楽を仕事にするのをやめる、と親に約束をしていたんです。オーディションはたくさん受けたけど、どれもダメでした。でも、卒業してからずっと、バイトもせずに音楽だけで何とか生活出来ていたので、続ける事を両親も納得してくれました。その年、結婚して子どもも生まれ、私生活も充実しました。妻は、アマチュアでヴァイオリンを弾いていた人で、理解があり「何とかなるでしょ」といつも言ってくれた。家庭をもってからですね、30歳の年を機に、いろいろな面で、だいぶ落ち着きました。子どもは6歳と4歳、2人います。収入は基本的には僕の活動だけです。

オーケストラ入団がすべてではない。可能性はほかにもたくさんある!

―― フリーランスの良いところは?

 「仕事は何をしていらっしゃるんですか?」と聞かれて、「トランペット吹いてます」と答えると、「普段は何をなさっているんですか」と聞かれる。これ笑い話ではなく、よくある会話なんです。

 世の中がフリーランスでトランペットを吹くという仕事に理解がないからなのかもしれませんが、僕的には、すべてが自分のスケジュールで動けるし、本当に何でもやりたい事が出来る。それが何よりですね。しかも僕の場合、いろんなフィールドで活躍している仲間が多くて、それは大きいですね。刺激も受けるし、楽しいです。

 ただ、フリーランスは正直なところ、低く見られる傾向があって、ギャラの交渉では信じられない単価を提示される事もあるんです。最近になってですが、そういう仕事は場合によってはお断りする事もあります。自分の価値を評価してくれる仕事でないと受けない。そうしないと、フリーランスの立場がどんどん悪くなっていきますから。

 今や現実的には、フリーランスが増えてきているんです。クラシックをやる人の中には、オーケストラのオーディションに受からなければ道が絶たれるという感じがあるかもしれないけど、そうではなくていろいろな道や方法はある。音楽の道で食べていける可能性はある。それを伝えたいですね。

音楽、楽器だけに向き合う期間を作る事。そして、夢を持とう!

―― プロになりたい人たちにアドバイスをするとしたら?

 「何とかなる」という気持ちが大事だと思います。これからどうなるかわからない世の中だし、初めからそれほどお金も稼げないしと思っていては、夢ももてないじゃないですか。

 僕自身のエピソードで言えば、卒業して引っ越す時に紹介されたのが、家賃が予算より2万円高い物件でした。でも、すごく気に入ってしまった。悩んでいる時に仲介の人が言った「背伸びして借りるのもいいんじゃないですか?」という言葉に背中を押されて決断し、その後7年間住みました。覚悟が出来たし、最低でも月いくら仕事しないといけないという計算も出来るじゃないですか。実際何とかなりました。

 それから、一度は音楽、楽器だけに向き合う期間を作る事。アルバイトをしないと生活出来ないと思うかもしれないけれど、試しに1ヶ月でもいいから、まっさらな状態で、音楽だけをやってみる事が必要なんじゃないかと。手帳が真っ白というのは本当に怖いです。でも、音楽で生きていくには何か仕事をしなきゃ、こなければ作らなきゃ、何をやったら仕事がくるのか、仕事になるのか、悩み、考える事になるでしょう。それによって自分の技量も見極められるし、腕も磨ける。そして何より、音楽だけで生きていけるかどうか、生きていこうと思えるかどうか、自分自身の「覚悟」に気付く事が出来ると思います。

佐藤秀徳

  福島県郡山市出身。東京藝術大学卒業。
 ソロからオーケストラ、ジャズ・ポップスミュージシャンとのアンサンブルなど多方面で演奏しているフリーランスプレイヤー。シアターオーケストラトーキョー(Kバレエカンパニー)、横浜シンフォニエッタ、東京金管五重奏団などに所属。アンサンブルノマドレギュラーゲスト。
 1999年~ライブパフォーマンスグループ「チャンチキトルネエド」(2013年活動休止)のメンバーとして海外公演や全国ツアーに参加し各方面から高い評価を得た。
 2013年NHK連続テレビ小説「あまちゃん」のレコーディングに参加。以後あまちゃんスペシャルビッグバンド(その後大友良英スペシャルビッグバンドに改称)のメンバーとして、全国各地での公演、レコーディング、新宿PIT INNでのライブなどで演奏している。
 2016年には、ギタリスト佐藤紀雄とのデュオBarchettaの活動もスタート。世界的にも珍しいデュオに注目が集まっている。
これまでにソリストとして、多摩ウインドオーケストラ、江戸川吹奏楽団、東京ガス吹奏楽団などと共演。
 故郷福島県では、ソリストとして多くの音楽団体と共演したほか、後進の指導にも力を入れている。2010年に福島県出身のトランペット奏者3人とピアニストでQuartet Made in Fukushimaを結成。県内での演奏を中心に東京や福岡での公演、CD制作など精力的な活動をしている。
 トランペットを栃本浩規、津堅直弘、杉木峯夫、関山幸弘、ヒロ野口の各氏に師事。

佐藤君と僕とは20年くらいの付き合いがあり、今回吹奏楽のメンバーを集めるにあたって真っ先に頭に浮かんだプレイヤーです。

僕は高卒でプロになったので、若干学歴にコンプレックスがあるのですが(笑)、僕のジャズやポップスでのマルチな活動や、作編曲のスキルなんかも評価してくれる数少ない友人の一人です。

今回のインタビューで、改めて彼の視野の広さを感じましたね。それがオンリーワンの音色や人間性ににじみ出ていると思います。

今回のイベントでも素晴らしい演奏をしてくれたし、ほかにもキーパーソンとなるプレイヤーを紹介してくれました。そういった人たちを惹き付ける、引き寄せるのもまた、彼の才能と言えるかもわかりません。

次回記事:Vol.2 音楽に没頭出来る環境で4年間やりきる、それが財産になる! / 太田友香さん(クラリネット)
前回記事:『夢を実現させるために、最も大切な行動とは?』 Vol.3

ニュース一覧へ

Reccomend