音楽家のサバイバル術A way for musicians to survive
音楽家として自立するには「信念・情熱・感謝」が大切! | ドラム奏者・黒田慎一郎さん
7回シリーズでお送りしている特集『輝く7人の音楽家たち』も、後半戦に差し掛かってきました。毎回興味深い内容で、僕自身も刺激を受けています)。
5回目となる今回は、ドラマーの黒田慎一郎さんです。
黒田さんとは、お互いテーマパークのショーに出演しているころに知り合い、アメリカ留学も同じ時期に経験しました。現在は僕のバンドのファーストコールでもあり、CDのレコーディングにも参加してもらっている、最も信頼出来るドラマーの一人です。
そんな黒田さんは、どんな人生を歩んできたのでしょうか。
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Vol.5 音楽家として自立するには「信念・情熱・感謝」が大切!
黒田慎一郎さん・ドラム(アメリカ・ユタ州スノーカレッジ留学/フリーランス)
専門職の父にあこがれて…
―― 今日のネクストステージ・ウインドオーケストラのリハーサルをやってみていかがでしたか?
ふだんはジャズコンボで管楽器1〜2人とピアノ、ベース、ドラムという編成だったり、テーマパークでも、打楽器はスネアとバスドラムだけなので、マリンバやティンパニが入る大編成はとても刺激的です。僕はテーマパークのショーに19歳のころから出演しているので、小さなお子さんの前で演奏するのは得意なんですよ。園児や保護者の方々に、良いサウンドを届けられたらいいなと思っています。
―― ドラムを始めたのはいつですか?
高校1年生からです。小学校から吹奏楽でトランペットをやっていたのですが、高校の吹奏楽部で部室にあったドラムセットを叩いていたら、そっちのほうが面白かったんですよね。「トランペットは口がすぐ疲れるな、向いてないのかな」と思うようになり、ドラムに気持ちが傾いていきました。
―― プロになろうと思ったのは高3だそうですが、きっかけは何だったんでしょうか?
父はもう引退しましたが、日本に3台しかない大型クレーンの運転手だったんです。そういう専門職に小さいころからあこがれていて、自分の「手に職」で仕事が出来たらといいなと子ども心に思っていました。今から思えば、そのあこがれが自分の好きだった音楽、ドラムと結びついたのかもしれません。
高校は進学校で、もちろん受験勉強はやっていました。でも実は勉強が嫌で(笑)。夏休みは一応、図書館で勉強して、それから家に帰ってドラムの練習で勉強のストレスを発散するというような生活でした。そんな中で「やっぱりドラムでプロになりたい!」と思うようになったんです。
進学校だけに、ほとんどみんな有名大学を希望していましたが、僕は音楽の専門学校を希望しました。
専門学校からプロの道へ
―― 専門学校はどんな感じでしたか?
その学校では、僕の師匠の坂田稔先生(老舗のビッグバンド「宮間利之&ニューハード」のレギュラードラマー)も長く教えていたし、月謝もそれほど高額ではなかったんです。ほかにこの学校が良かったのは、空いている部屋を練習用に貸してくれたことですね。学院長に手紙で直談判し、許可をもらいました。今から思えば、よく理解してくださったと思います。1年間通い、あとは自分でやっていこうと考え、退学する事にしました。
―― 専門学校を辞めてからはどんな活動をされたんでしょうか?
初めてのジャズライブが19歳か20歳くらいだったと思います。その後、テーマパークでのレギュラーの仕事もあったので、これまでの音楽活動は順調なほうではないでしょうか。でも、そのテーマパークの仕事に今年の3月で区切りを付けようと思っているので、この先はどうなるかわかりません。完全なフリーランスになれば、スケジュール的には自由が利くので、仕事が増える可能性はありますが、その逆もあり得ます。
フリーランスは何より人のつながりが大切なので、今はきた仕事をなるべく受けるようにしています。テーマパークの出演などとの両立は大変ですが、辞めた後の事を考えると、今が踏ん張りどきですね。
アメリカ留学で学んだこと
―― 黒田さんのアメリカ留学経験について教えていただけますか。
2004年に、テーマパークのショーに一緒に出演していたアメリカ人のトランペット奏者が、帰国後ユタ州の短大(コミュニティーカレッジ)でジャズ科のミュージックディレクターになったんです。楽屋で僕が「アメリカで勉強したい」と言っていたのを覚えていてくれて、「学校から奨学金を出すから来ないか?」と声をかけてくれました。
日本で言うところの学費免除の特待生のようなものです。まだ実績のない学校だったので、レベルを上げて宣伝にするために、ある程度叩ける人を呼ぼうとしていたようです。
学校の授業の話ではないんですけど、在学中にコミュニティーカレッジ・ビッグバンドの全米選抜のメンバーになって、ニューヨークで演奏させてもらったのはとても貴重な経験でしたね。
ちなみに、奨学金を学費の全額受け取っていても、当然生活費や食費は自腹です。1年で100万円くらいは必要でした。ジャズのレベルが高い4年制の大学に進みたかったんですが、お金を貯めないと通えないので、いったん帰国したんです。
でも、英語も上達して友達も増えたし、本当に楽しかった。出来ればもう1回行きたいですね。帰国後は、留学前と比べて、日本在住の外国人ミュージシャンから声がかかる機会も増えたので、本当に行って良かったと思っています。
―― 日本との違いはどうでしたか? カルチャーショックを感じた事は?
ユタ州はモルモン教徒が多く、信仰心がとても深い土地柄なんです。学校生活でも、日本では許される範囲の生活習慣の乱れでも厳しく注意されました。日本とは違う価値観、宗教観の人にたくさん会い、自分の視野も広がったように思います。
「俺が俺が」ではなく、お客さんのために
―― いろいろな経験を積んだ今、プロの音楽家として最も大切にしていることは何ですか?
音楽そのものや、すべての出会いに感謝する事です。お客さんが自分の演奏を聴いて喜んでくださった時は、この上ない喜びを感じますね。でも実は、そう思えるようになったのは最近なんです。それまでは、「俺が俺が」という感じでした(笑)。
―― 若いうちはそういう気持ちが必要な時期もありますよね?
プロとしてやっていくためには、受け身でいるだけではダメですよね。特に若いうちは自分をアピールするのも大切ですが、それだけでは幸せではないんじゃないかと思うようになりました。何のために音楽をやっているのか?
経験を重ねるにつれ、余裕をもって演奏出来るようになってきたら、自然と「もっとお客さんを意識しないと」という想いがわき上がってくるようになったんです。自分の事だけで精一杯だと、ほかの人の事までは気を配れないものです。
―― 音楽家として自立するためには何が大切だと思いますか?
やりぬく「信念と情熱」ではないでしょうか。
音大や専門学校に進学しても「絶対にプロになりたい」という人もいれば、「プロにならなくていい、普通に就職しよう」という人もいると思います。何が何でも音楽を続けていこうという人は、誰かに言われてやるんじゃなくて、自分の意思でやるんですよね。稼げるようになるまでに何年かかるかわかりませんが、やりたい人はやるんです。
自分も生徒さんを教えていると、本人や親御さんから「プロになれますか?」と聞かれる事がよくあります。僕は「なろうと思う人はなりますよ」と答えます。先生によっては「いや、君は無理だ」とはっきり言う人もいますが、僕はそういうは言い方はしません。
プロを目指して音大を目指す受験生や現役の音大生、若い音楽家の方は、周囲への感謝を忘れずに、自分を信じて頑張ってほしいですね。
97年、ドラムマガジンコンテストで優勝。95年~現在まで、東京ディズニーリゾートにてさまざまなショーに出演。05年~06年、奨学金を得てアメリカ・ユタ州スノーカレッジに留学。IAJE(International Association for Jazz Education)カレッジビッグバンドの全米選抜に選ばれ、ニューヨークにてMarcus Printup (Blue Note Artist)との共演や、Crescent Jazz Festivalへの出演も果たす。これまでに、Benny Green、Ben Wolf、Red Holloway、Scott Wilson、Tom Parmerterらの海外ジャズアーティストと共演。08年には、Blue Man Group in Japanに出演。現在Zildjian(ジルジャン)モニター。
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今回インタビューさせてもらっている7人の中では、Vol.1の佐藤君が一番長い付き合いで(20年くらい)、黒田さんが二番目に長いんですが(15年以上)、やはりその間にも消えていった人はたくさんいるんですよね。
そんな中でも生き残っている人に共通しているのは、実力はもちろんなんですが、黒田さんがおっしゃっている「音楽そのものや、すべての出会いに感謝する事」と「信念と情熱」ではないかと思います。
「好きこそ物の上手なれ」ということわざがあるように、好きな音楽に信念をもって向き合い、情熱をもって演奏する事、それが人の心を動かす音楽につながるんだと思います。
そして、そのパフォーマンスを通して出会うすべての人に感謝する事で、音楽家として生きる人生は、より有意義になるのかもわかりませんね。
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前回記事:Vol.4 音楽をやっていくなら、出会い、そして人間関係を大切に / 塩浜玲子さん(マリンバ)